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2023年03月09日

サイクリスト あの日の夢~これからの夢 沖美穂さん(前編)「自転車の本場ヨーロッパ 日本人の考え方を捨てて戦う」

「力もテクニックも及ばず悩んでいるときに自転車に出会い、チャレンジしたいという気持ちが漠然と出てきました」

スケートの練習の一環で、ロードバイクでトレーニングしているときも「得意だったし、楽しかった」と興味は持っていた。

自転車について橋本さんに相談したいと思ったが、スピードスケートの世界選手権(1993年、群馬県・伊香保リンク)の代表チームで一緒になったことはあるものの、沖さんは当時補欠で雲の上の存在だった。そこで高校のスケート部の恩師を通じて橋本さんに連絡をとったところ、「山梨の境川自転車競技場で練習しているから、来てみたら? 自転車のことや周りの環境のこととか、わかってくると思うので」と快く誘ってもらえた。

1995年5月、橋本さんらと自転車の練習を始めるとすぐ心は決まり「1週間でスケートの実業団をやめて、山梨に引っ越してきました」と自転車の道へと転向した。

スピードスケート時代は500m、1000mの選手だった沖さんは、トラックの短距離向きかと漠然と考えていた。しかし、バンクを走るのはまだ危ないからと言われ、最初の1年間は、ロード、ウエイト、3本ローラーで基礎トレーニングを続けていた。中でも、ロードバイクの自由な感覚のとりこになった。

「なんてスケートより精神的に楽なんだと思いました。スケートはひとつの競技場をグルグル回っているだけですが、ロードって景色が変わったり、道が上ったり、下ったり、平たんだったり、風の強さが違ったり、そういうのが新鮮に感じました。毎日が楽しかったです」

当時は橋本さんが1996年アトランタ五輪に向けたトレーニングを行っている時期で、沖さんは橋本さんのチーム、S・H・I(セイコ・ハシモト・インターナショナル)に所属し、トレーニングや合宿も一緒に行っていた。

「そのころは聖子さんが政治家を目指されているときで、練習が朝早い時間からで量もすごく多かった。それが自転車選手として当たり前のトレーニング量だと思っていたので、その後も練習が大変だと思ったことは1回もないです。聖子さんとは同じ身長だったので、自転車やウエアを貸していただいたり、いろいろ支援してもらいました」

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