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2023年04月27日

サイクリスト あの日の夢~これからの夢 鈴木真理さん(前編)「目標を立てて勝つことに意味がある」

かつて選手として活躍し、引退後のセカンドキャリアでも様々な分野で精力的に活動を続ける人々の足跡をたどり、当時の思いや今後の展望を聞く連載。第5回は、全日本選手権やアジア選手権で優勝、アテネ五輪出場など活躍した鈴木真理さん。現在は「TRUTH BIKE」を立ち上げ、小学生向けの自転車スクール「ブリッツェン☆ステラ」から大学生まで若い才能の育成に全力を注入。育成業の傍らJCLチーム「さいたま那須サンブレイブ」の監督も務めている。前編・後編の2部でお届けします。

INDEX


病弱だった少年が、自転車で見つけた夢


初の海外挑戦で挫折 日本で大きく飛躍


全身全霊で挑んだアテネ五輪代表争い


ヨーロッパ挑戦で経験不足を痛感


若手育成という新たなやりがい


勝つ喜び、走る喜びを求めて


病弱だった少年が、自転車で見つけた夢

神奈川県二宮町出身の鈴木真理さん。選手としての輝かしいキャリアからは想像もつかないが、子どものころは小児ぜん息で苦しみ、ほとんど運動もできなかったという。

「小学4年生のときが一番ひどくて、登校も普通だったら10~15分で行くところを3時間かかったり、授業に出るというよりは保健室でゼイゼイハアハアしていたような生活でしたね」

そんな日々を過ごす中、小学6年生のとき父親がロードレーサーを知り合いからもらってきたのが、自転車との出会いだった。

「たまたま自転車に乗っている同級生がいて、一緒にサイクリングに行こうかっていうのが始まりでした。当時はぜん息がまだ治ってなくて、待ち合わせした日の朝になって発作で行けなかったということも多かったです」

「中学2年生ぐらいでだんだんぜん息も治まってきて、最初はサイクリングみたいな感覚で買い物に行こう、江の島に行こうとか、目的決めて出かけるのが好きでした」

その友人がレースにも出ていた影響で、鈴木さんもロードレースの扉を開く。

「中2の終わりのチャレンジロード(静岡県・日本CSC)が初レースですね。中学生の部で75人中70位ぐらい。本当に全然ダメで、そこから朝練とかを始めたりして、中3のころは中学生の部で入賞できるようになっていきました」

「そのころツール・ド・フランスをテレビで見て、出たいなという気持ちになりました。アニメを見て強くなりたいと思うのと同じ子どもながらの感覚で、将来は自転車の選手になりたいと思い始めましたね」

進んだ高校には自転車競技部はなく、父親と一緒にチームを立ち上げる。

「実業団のレースに出たいというのを親父に言ったら、近くでレース活動している人たちに声をかけてチームを作ってくれて、実業団登録しました。その人たちと一緒にレースに行くのが、高校時代ですね」

チーム名は、1年目は湘南Z、2年目の1991年からはチームアトランタとして活動する。1996年に開催されるアトランタ五輪を意識した名前だった。

「あまり覚えてないですけど中学生で自転車を始めたときには、オリンピックに出たいと言っていたみたい。チーム名をアトランタにしたのも、オリンピックに行きたいなあっていうのが漠然とありました」

日々の練習で力をつけていった鈴木さんは、高校2年生のとき全日本実業団(日本CSC)で14位に入る。シマノレーシング、ブリヂストンサイクル、日本鋪道など国内トップチームも出そろう中で、高校生としては注目を集める結果だった。この成績で、翌年は国際サイクルロードレース(現ツアー・オブ・ジャパン)に実業団選抜で出場する。

「当時は体重が52、3kgぐらいしかなくて、上りは得意だったんですけど平地が苦手で、平坦ステージのスピード差にあっという間に千切られてリタイアしてしまった。痛い目には遭いましたけど、すごく覚えてますね」

初の海外挑戦で挫折 日本で大きく飛躍

高校卒業後は、海外での武者修行を志す。ロードレースの本場はヨーロッパだが、1990年代前半は今のように若手選手がヨーロッパへ行く道筋はほとんどなく、鈴木さんは知人のいたカナダ・バンクーバーを拠点にレース活動を始める。

「まず、エントリー方法とか会場を全部自分で調べなきゃいけない。アメリカの方がレースは多かったので国境を越えないといけないんですが、英語がまったくしゃべれなかったので、イミグレーションを通過するのにも30分とか1時間かかったり。だから成績というよりは、スタート地点に着くのかなっていうのが大変でしたね」

北米のレースはクリテリウムが多く、鈴木さんはその後のキャリアで大きな武器となるスプリント力を伸ばすことになる。しかし、英語が上達せず環境にはなかなか馴染めなかった。

「気が滅入ってしまって、ホームシックになりました。翌年も来ないかと誘われたんですけれど行く勇気もなかったし、海外が大嫌いな人間になってしまいました」

帰国後の1994年、当時の全日本ロード王者だった大石一夫さんのチーム「エキップあずみの」に加入する。

「大石さんのチームに入れてもらったことで、ツール・ド・北海道とか大きな大会に出るチャンスも巡ってきました。(1994年)ツール・ド・北海道は、大石さんがエースだったんですけど不調で、僕のアシストをしてくれた。おかげで初日にステージ2位、最終的に総合5位。そこから、トップチームに声をかけていただけるようになりました」

1994年ツール・ド・北海道、ポイント賞ジャージを来てスタート地点に並ぶ鈴木さん(右)。中央はエキップあずみののチームメイト、大石一夫さん。提供:鈴木真理さん

「僕の師匠は、大石さんですね。もともと憧れの選手でもあったし、練習がかなりハードでした。大石さんは毎日5時間とか練習するような人で、何かを学んだというより、ただ引きずり回された感じです。それで忍耐力とか体力がついて、レースでも我慢する限界域が上がりました」

1995年国際サイクルロードレース、鈴木さん(右2人目)はポイント賞を獲得し、表彰式を待つ。その左は、後に世界チャンピオンとなったオスカー・カメンツィン(当時・日本鋪道)。提供:鈴木真理さん

1996年にはブリヂストンサイクルへ移籍。この年、ステージレースの三笠宮杯ツール・ド・とうほくで総合2位に入る。

「当時、日本鋪道にイタリア人選手がいて、そのイタリア人たちと戦うっていうのが楽しかった。イタリア人を後ろにつけて、アタックして千切るのが喜びでした。恥ずかしいですけど、当時はめちゃくちゃオラオラ系だったので、俺は強いというのをイタリア人に認めて欲しかったんです」

1997年ツール・ド・台湾でステージ優勝を挙げた鈴木さん(中央)。その左は、野寺秀徳さん(現・シマノレーシング監督)。日本ナショナルチームとして参戦した。提供:鈴木真理さん

翌年はジャパンカップ(栃木県宇都宮市)のアマチュア部門で優勝を飾る。

「当時はプロ選手じゃないとメインレースには出られなくて、国内チームはみんなアマチュアレースに出ていた。そこで初めてビッグタイトルを獲れたのは、ブリヂストン時代で一番嬉しかったですね」

1997年ジャパンカップサイクルロードレースのアマチュア部門で優勝を飾る。提供:鈴木真理さん

しかし、次の年は成績が低迷する。

「ちょっと遊びに走ってしまったというか、成績が出なくなってしまった。 環境を変えてみようと、シマノレーシングの選手だった今西 (尚志、現シマノレーシングGM) さんに相談して、当時の 坂東(晃)監督に取り次いでいただききシマノに入りました」

1999年にシマノレーシングに移籍。ここから鈴木さんは選手としてさらなる飛躍を遂げる。

「シマノは先輩たちがみんなオリンピックに出ていたり、偉大な先輩ばかりでした。ただ今西さんを中心に本当にいい人たちで、今思うと若い選手を育ててくれる環境を作ってくれていた。その中で僕はのびのび自転車をやれたので、一気に成績が出せたキーポイントだったと思います」

2002年には全日本選手権(広島中央森林公園)で優勝。長年、待ち望んだタイトルだった。

「当時は日本ランキングというのがあって、2000年、2001年とずっと1位でした(その後、2004年まで5年連続1位)。全日本は2000年も勝てるチャンスがあったし、以前にツール・ド・台湾(1997年)やツール・ド・韓国(2001年)でもステージ優勝してきたけど、どうしても全日本選手権が優勝できなくて、ようやく2002年に獲れました」

2002年全日本選手権、雨のレースを制し悲願の全日本チャンピオンに。提供:鈴木真理さん

翌2003年は、アジア選手権(韓国)を制覇。名実ともに日本、アジアを代表する選手となった。

「アジア選手権は、日本人の優勝がしばらくなかった。阿部(良之)さんが以前(1995年)勝ったというのは聞いていたんですけど、優勝するぞっていうよりはひとつのレースとしていい結果が出ればいいなぐらいの気持ちで走っていました。それでたまたま優勝したので、レース展開とかも何も覚えてないですね」

全身全霊で挑んだアテネ五輪代表争い

続く2004年はアテネ五輪の年。その代表争いに全身全霊で挑んでいく。

少し話はさかのぼるが、鈴木さんは2000年シドニー五輪でも代表枠を勝ちとれる自信はあった。しかし、代表選考レースだった全日本選手権(広島中央森林公園)では、チームメイトの阿部良之さんが優勝。鈴木さんは最後の勝負まで進めるが、チャンスはつかめなかった。

それだけに、アテネにかける思いはより一層強かった。まずは優秀な選手がそろうシマノレーシングの中で、自分が強いことを証明しなければならなかった。

「アテネのときは、次こそはという気持ちです。チームメイトの野寺(秀徳、現・シマノレーシング監督)もかなり狙っていたと思うんですけれど、譲るわけにはいかなかった。チーム内争いじゃないんですけれども、みんなピリピリしてましたね」

「なぜかというと、当時のシマノレーシングはエースとアシストがはっきりと分かれていなくて、全員にチャンスがあった。そこで、真理が(五輪に)行くんだっていうのを、チームメイトに納得してもらわないといけない。だから、勝てなければ他の選手に譲らなくちゃいけないプレッシャーがありました。僕は行きたくて行きたくてしょうがないんで、本当に嫌なヤツだったかもしれないですね」

しかし、熾烈なチーム内争いの中でもシマノレーシングがバラバラとなることはなかった。

「ただ、そこでキャプテンの今西さんが、真理で(五輪に)行くということで4年間ぐらいずっとチームをまとめてくれた。今西さんがいなかったら、僕のオリンピックもなかったかもしれないし、野寺みたいにいい人がいなかったら行けなかったんじゃないかな。今西さん、野寺、狩野(智也、現・マトリックス・パワータグ)さんもそうなんですけど、僕のことをみなさんが支えてくれたことでいろいろうまくいったことがたくさんありました」

アテネ五輪の代表選考レースは、4月末の全日本選手権。「選考会前は全部のレースで優勝するつもりでした」という鈴木さんにとって、4月初めのアジア選手権(三重県四日市市)も2連覇を目指すというより、自分の強さを証明するため勝たなければいけないレースのひとつだった。

「2003年はたまたま勝ったんですけど、2004年はカザフスタンもマキシム・イグリンスキー(2012年リエージュ~バストーニュ~リエージュ優勝)ら正メンバーで来ていて、イランもツアー・オブ・ジャパンで優勝した選手たちとか、アジアのそうそうたるメンバーが集まる中で、意気込んで狙ったレースでした」

鈴木さんは自ら逃げを作り、後半潰されてもさらに逃げた。最後は鈴木さんとイグリンスキーらカザフスタン2選手の3人の争いとなったが、 数的不利な状況から力で優勝を奪いとった。狙い通りアジア選手権を制し、絶好調の状態で全日本選手権(日本CSC)を迎えた。この年は。1位と2位の選手にアテネ五輪の代表枠が与えられることになっていた。

「熊野、アジア選手権とか全部優勝で、5連勝ぐらいして、選考レースを迎えていたので、自分の中でも負けるわけはないと思っていた」

しかし、意気込むあまり、心身ともに緊張はピークに達していた。

「めちゃくちゃ緊張して体がカチコチになって、スタート前から涙も出て、体が震えて、どうにもならなかったですね。二度と忘れないし、二度と味わいたくないです」

結果、優勝は田代恭崇(当時・ブリヂストンアンカー)さん。鈴木さんは2位に入り、辛うじて代表枠を手に入れた。

「完全な負けだったんです。(レース展開も)あんまり覚えてないですね。勝つと思っていたので、負けてしまったことが悔しかった。(五輪代表の)嬉しさより、負けた悔しさの方が大きかった」

その後、アテネ五輪までの数カ月はレースも練習も全力で取り組んだ。しかし、オーバーワークにより体が悲鳴を上げてしまう。レース当日まで2週間あまりで、ヒザに痛みが走ったのだ。

「オリンピック前にナショナルチームの合宿があって、そこからまた個人合宿を組んで、1週間で1400km乗り込んでいました。ずっと休まず続けてしまったことで、ケガしてしまったんです」

「オリンピックまでの2週間は、プールでリハビリしかできなかった。日本代表監督だった高橋松吉さんに辞退しますみたいなことを言ったんですけど、『どうせだったら、出とけ』と言ってくださいまして、リタイアするとわかっているけど出させてもらえました」

結局、状態が回復することなくアテネ五輪はリタイアに終わる。

「あまり走れなかったのでなんとも言えないんですけど、今思えば上りが少ない得意なコースだったので、10位前後で走れたんじゃないかなっていう自信はありますね」

ヨーロッパ挑戦で経験不足を痛感

高校卒業後の北米でのレース活動でホームシックとなり、一時は海外志向が薄れていた鈴木さんだが、シマノレーシングやナショナルチームなどで海外遠征を経験したことで、本場のヨーロッパで挑戦したい気持ちが高まっていた。そこで2005年、ヨーロッパで活動していたブリヂストンアンカーに復帰することになる。

「ヨーロッパは、中学生のときに憧れたところだったので行きたい気持ちはずっと持っていた。シマノにもヨーロッパに行こうよ、と話していたけどなかなか実現しなくて、それでブリヂストンに行ったんです」

しかし、鈴木さんの移籍が決まった後、シマノレーシングはオランダのチームと合併し、シマノ・メモリーコープが誕生。このチームは第2カテゴリーのプロコンチネンタルチーム(現UCIプロチーム)で、コンチネンタルチームのブリヂストンアンカーより格上。UCIプロツアー(現UCIワールドツアー)やHC(超級カテゴリー、現UCIプロシリーズ)などレベルの高いレースにも参戦できた。

「今西さんから『真理、ごめん。チームできちゃった』みたいな連絡が来ました。残念だったかもしれないけれども、実際、プロツアーのレースに僕が出ていたとして、急にそんな高いレベルで走っても完走できるかできないかというところだったでしょう。それで自転車が嫌いになって、ここまで続けていなかったかもしれないですね」

「ブリヂストンアンカーは1つ下のクラスで、1クラスのステージレースでは初日に10位以内に入ったりしました。エリック・ツァベル(ツール・ド・フランスのポイント賞6連覇)、イタリアチャンピオンだった(ダニエーレ・)ナルデッロらと10人ぐらいで逃げて、一緒にスプリントできたっていうのは、今となったら自慢話みたいなものですね」

「当時は6位以内だとUCIポイントをもらえたんですけど、獲れるだろうと思ったらやっぱり彼らには力あった。ラスト3kmぐらいで彼らがアタック合戦したときに脚をかなり使ってしまい、最後のスプリントで7、8位ぐらいになってしまった。浅田(顕、当時・ブリヂストンアンカー監督)さんにもポイント獲れると思ったのにねと言われて、すごい悔しい思いはありましたね」

いい走りができたレースもあったものの、長年夢見たヨーロッパ挑戦は満足いく結果は残せなかった。

「やはり経験不足ですね。オリンピックに行って、日本やアジアで勝っているけど、違う土地に行って冷静さを欠いてレースの見極めができず、ポイントも獲れなかった、今になったら、もっとできたのになあと感じますね。もっと経験を積んでいたら、日本人でも行けるなという感触はありました」

若手育成という新たなやりがい

翌2006年は、チームミヤタに移籍。歴史ある実業団チームだが、当時は資金難で解散の噂が絶えなかった。

「ブリヂストンアンカーでケガとか色々あって、もうダメかなというときに栗村(修、当時・チームミヤタ監督)さんに相談しました。僕の給料も交渉してもらって、それまでより少し下がったけど確保してもらいました」

チームミヤタで鈴木さんは新たなやりがいを見つける。選手育成だ。

「チームメイトの多くが大学生とかだったんです。走り方も全然知らないし、練習方法も知らない。いろいろ教えていくのが楽しくて。そこから育成が楽しいなあというのをちょっと感じ始めたときですね」

「当時は増田(成幸、現・JCL TEAM UKYO)選手、山下(貴宏)選手、中村誠選手とゆくゆくはトップチームにいく選手が入ってきて、2007年には鈴木譲(現・愛三工業)選手、福田真平(現・キナンレーシングチーム、競輪)選手も入ってきた」

「僕の中でもあまり優勝したいと思わなくなったし、その後も何回か優勝してるんですけど、全盛期のときのような優勝した喜びはあまりなかったんです」

チームミヤタ時代、増田成幸選手(現・JCL TEAM UKYO)を引き連れて集団先頭を引く。提供:鈴木真理さん
Jツアーリーダージャージを着る鈴木さん(中央)、左は鈴木譲選手(現・愛三工業)。提供:鈴木真理さん

そう振り返る鈴木さんだが、2006~2007年とJツアー(現Jプロツアー)年間総合優勝を連覇し、変わらぬ強さを見せつけた。しかし、チームミヤタは奮闘むなしく2007年で解散となり、古巣シマノレーシング(2008年はスキル・シマノ)に復帰する。

「そのときも、今西さんからお誘いいただきました。当時、シマノがあまり成績が出てなかったので、みんなを育ててほしいと。ただ、まだそのときは若い子はあまり育たず、結局、僕や野寺、狩野さんが成績を出して、チーム総合とか個人総合のタイトルを全部取っていった。数年前の全盛期のシマノが戻ってくるような感じでしたね」

鈴木さんは2009年Jサイクルツアー(現Jプロツアー)の年間総合優勝を獲得、シマノレーシングも2008~2011年、同ツアーのチーム総合優勝を4連覇する。一方で、自らの走りで若手に喝を入れることもあった。

2008年スキル・シマノ時代、ツール・ド・韓国でステージ優勝 。提供:鈴木真理さん
2009年ツール・ド・台湾でステージ優勝。提供:鈴木真理さん

「若手の中には、アシストするから成績出せないという選手もいた。だから、若手に言い訳させない状況を作ったんです。僕がアシスト的な動きでずっと先頭を引いて、そのまま先頭集団に残ってスプリントしたりというレースを若手に見せていくのが、モチベーションになった。またそこで、だんだん強くなっていったんです」

2009年ツール・ド・熊野で、鈴木さん(左)は総合2位表彰台を獲得。優勝はヴァレンティン・イグリンスキー(マキシムの弟)、総合3位はドミトリー・フォフォノフ(2008年ツール・ド・フランス総合18位)のカザフスタン勢。若手に手本を見せなくてはと、奮闘した。提供:鈴木真理さん

2012年には、新たな挑戦をスタート。佐藤茂彦GMとともに新チーム「キャノンデール・スペースゼロポイント」(現・弱虫ペダルサイクリングチーム)を立ち上げた。

「たまたま家の近くにスペースゼロポイントという自転車屋さんがあって、(店主だった)佐藤さんと一緒にチームを作って育成したいねというのが始まりです。キャノンデールさんがスポンサーしてくれて資金を確保できることになり、若手育成の目的で走り出したんですが、本当にゼロの状態だったのでやりがいを感じていました」

「最初は自分の力で上位に入って、チーム総合2位あたりにつけたりしていたんですが、やはり無名の選手の集まりだったんで、僕が優勝や入賞するより、周りの選手がどのぐらい上位に入ってポイントを稼げるかっていうのも、重要視していました」

そんな中、チームはJプロツアー2戦目のチームTT(南紀白浜)で優勝と、周囲も自分たちでも驚く結果を出す。

「マトリックス、ブリッツェン、チーム右京とかみんな出ている中で、全然名前も知らないような選手たちと一緒に走って優勝できたっていうのが忘れられないです。帰りの車の中は大騒ぎでした。他チームのいろんな選手から、この選手たちで勝てたのが本当にすごいと評価してくれたのが、僕の中で自慢ですね」

勝つ喜び、走る喜びを求めて

順調な船出を切った新チームだったが、一方で鈴木さんはもっと若い世代の選手たちにも目を向けていた。

「当時、若くて強い選手を集めて練習会をして、同世代の交流を増やして何かの盛り上がりに繋がらないかなという感じでやっていたんです。今はそれが自分の仕事にもなっているんですけど」

そのころのメンバーは、岡泰誠、岡篤志(現・JCL TEAM UKYO)兄弟、紺野元汰(2018年ツール・ド・おきなわ市民210km優勝)さんらで、高校生が中心だった。

しかし、この年の8月、鈴木さんは若手との練習中の落車で大腿骨骨折の重傷を負ってしまう。

「雨が降っていて前の子がちょっと滑って、僕もそこに乗り上げて骨折しちゃった。逆にみんなに大迷惑をかけてしまいましたね。骨折が治るのに3カ月ぐらいかかったんですけれども、また走れるようになるのかが一番疑問でした」

「当時はまだ大腿骨骨折して復帰した自転車選手はいなかったので、後に同じ骨折をした新城(幸也、現・バーレーン・ヴィクトリアス)くんや、伊藤(雅和、現・シエルブルー鹿屋監督)くんからどのぐらいで治るんですかと、いろいろ質問されました。なおかつ血栓ができてさらに手術することになり、また復帰へ向けて時間がかかってしまったんです」

リハビリを続ける中、翌2013年は宇都宮ブリッツェンへの移籍が決まる。

「(2012年)10月ぐらいに、僕から当時ブリッツェンの監督だった栗村さんに連絡してるんです。走れるかわからない選手を獲れるのかというところなんですけれども、栗村さんは走れる走れないよりは、チームの面倒見役みたいな役割を買ってくれて、ブリッツェンと交渉してくれて選手を続けることができました」

地域密着型チームとして2009年に船出した宇都宮ブリッツェンは徐々に力をつけ、地元での人気も獲得していった。その中で、鈴木さんも選手として新たな喜びを感じるようになった。

「ブリッツェンは若い選手がいるのはもちろん、ファンも多かったんですね。今までは自分のために走ることが喜びで、若手選手の活躍も喜びだったんですけど、自分の心の中にファンの喜びを求め始めてるんですね。それが新たな発見だったし、そういうのも感じられるチームですね」

しかし、体調の影響もあり、年々成績は下降。2017年限りでブリッツェンとの契約は終了し、以降、自身のレース活動はほぼ休止している。ところが、まだ引退という明確なピリオドを打ったわけではないという。

「どんどん弱くなっていくんで、いつかは(引退)と思ったんですけれども… 今は心臓の具合があまりよくなくて、動きに制限がかかって苦しかったりする。チャンスがあればいつでもレースに出ようと思うんですけど、今の状態だとちょっと厳しいかな」

「ただ引退はしてないのは事実です。周りからは一応引退って思われていて、今は自分が選手だとは口にはしないようにしています。でも、もし体の状態がよければ復帰したいなっていうのはありますね」

そんな鈴木さんの再び走りたいと思う原動力は、どこにあるのか。

「自分の喜びですかね。強いと言われたいというか、自分だけの喜びのために走りたい、走ることで強さを見せたいという思いです」

選手として多くの勝利を飾った鈴木さんだが、思い出に残る勝利というのはそれほど多くないという。

「プレッシャーがない中、優勝するのはあまりおもしろくなくて、印象に残らない。なんか勝っちゃった、という感じです。勝ちたいと思って勝ったレースじゃないと、自分の中で価値がわかなかったんです」

「もちろん、プレッシャーがかかっているレースでの優勝はめちゃくちゃうれしい。狙ったレースは展開も覚えてるし、あそこでこういうふうに動いたというのをすべて覚えてるんです。だから、ちゃんとした目標を立てて勝つこと、勝ちたい、勝つ、と思って勝つレースじゃないと意味がない。そういうのは本当に伝えていきたいと思うところです」

写真提供:鈴木真理さん


鈴木真理さん/Shinri Suzuki

1974年生まれ、神奈川県出身。2002年全日本選手権優勝、2003~2004年アジア選手権2連覇、2004年アテネ五輪出場。ブリヂストン、シマノレーシング、チームミヤタ、宇都宮ブリッツェンなど国内トップチームで20年以上活躍し、日本国内・アジアで数々の勝利、タイトルを獲得した。現在は指導者として小学生向け自転車スクール「ブリッツェン☆ステラ」のコーチ、JCL「さいたま那須サンブレイブ」の監督など、若年層を中心に精力的に育成に取り組んでいる。

扉写真:小野口健太

後編の記事はこちら: https://funride.jp/interview/2nd-career-5-2/

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