2023年03月09日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢 沖美穂さん(前編)「自転車の本場ヨーロッパ 日本人の考え方を捨てて戦う」
「レース中の中間スプリントや山岳ポイントに、50ユーロとか100ユーロとか賞金がかかってますよね。いつも私は、スプリントのトレーニングとしてチャレンジしていました。あるレースのポイントで私は2着だったんですけど、そのとき1着になった選手が『これで今日、おいしいご飯を食べられる』と言ったんです。そのとき、彼女たちとは全然気構え、ハングリー精神が違うなと思いました。私はトレーニングとして捉えているのに、彼女たちは今日生きるお金、生活費にしたいと考えている。だから、私は勝てないんだと思いましたね」
「そんな経験から、お金が一番にはならないですけど、自分がどれだけ恵まれている国で生まれたのか身にしみました。日本は物があふれていているけど、ヨーロッパの人ってすごくシンプルに質素に暮らしているんです。それが強さにつながるんだなとも思い知らされました」
沖さんは次第にヨーロッパの選手たちのような積極性を身に着けていった。
「オランダに移籍して大きいチームに入ったことで、エースとアシストがはっきりしているところで勉強させてもらいました。当時、レオンティン・ファンモールセル(五輪のロードとトラックで金メダル通算4つ獲得)というすごい選手が同じチームで、神様的なその選手に同じオランダ人もなかなか話を聞きに行けない。でも、私が彼女に普通に話を聞いていたらかわいがってくれて、個人合宿とかにも連れて行ってもらいました。そこで勉強することがたくさんあって、自信にもなりました」
ヨーロッパでもまれて、心身ともに力をつけていた沖さんは2004年アテネ五輪、2008年北京五輪にも出場。ワールドカップ(オーストラリア・ジーロング)でも2004年3位、2006年2位と表彰台に上がった。これは日本人ロードレーサーとして史上最高の成績である。
「ワールドカップでもトップ10に入れることが増えてきたり、ステージレースでも動きたいように動けるときが多くなってきた。オリンピックでも、第一集団で絡めるんじゃないかなっていうぐらいの自信はありました」
2005年からはイタリアのチームに移籍した。
「移籍交渉するときは、最初はチームのいいなりだったけど、2005年ごろから外国人の友達に英語でプロフィールを書いてもらって、交渉の仕方とか教えてもらって、結構いい金額で契約してもらえました。そういう交渉も楽しかったです」
ヨーロッパでの活動の日々は、充実したものだった。
「当時はすごく覚えることがたくさんあって、すごく楽しかった。自転車はやればやるほど、世界が広がる、視野が広がる。色んな国に行けて、いろんな人に会って、スポーツってこういうところが楽しいんだと気づきました。スポーツは世界平和のひとつと知ってましたけど、こんなに世界とつながるができる。言葉が通じなくても、通じ合えることがいっぱいある。今でも繋がってる人がいっぱいいるし。 すごく財産になっています」
沖美穂さん/Miho Oki
1974年生まれ、北海道出身。スピードスケートから自転車競技に転向し、全日本選手権11連覇、五輪3大会(シドニー・アテネ・北京)連続出場など、女子ロードレースの第一人者として活躍。現役引退後は公益財団法人JKAのアドバイザー、日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)教官などを務め、また順天堂大学大学院博士前期課程を修了。現在はJKA自転車競技振興室で競技者層の拡大、競輪の国際化などに尽力している。
写真:小野口健太
著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。