2023年02月20日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢 EF エデュケーション-NIPPO デヴェロップメントチーム 監督 大門 宏さん(前編)「出会いが生み出したストーリー」
イタリアでは鉄沢さんらの協力でチーム探しを始めたが、難航を極めた。
「なぜかと言うと、当時はソ連のナショナルチームがイタリア国内で勝ちまくって、賞金稼ぎみたいな感じになっていたんです。それでイタリア自転車競技連盟は外国人に対して規制をかけて、僕らも走れなくなった。今だったらグーグルで調べればわかるようなことですが、当時は状況がわかるのにすごく時間がかかりました」
結局、コロンボさんの紹介でイタリア国境に近いスイスのチーム、ベロクラブ・メンドリシオで走ることになる。スイスでのレース活動と並行して、国内では高橋松吉さんが立ち上げたエプソン・ボスコに所属。1989年ツール・ド・北海道では、総合優勝した大石一夫さんのアシストを務めた。
1990年は清野慶太(後に全日本ロード2連覇)さんから誘われて日本鋪道(現NIPPO)に移籍し、国内のレースにも復帰した。
この年のツール・ド・北海道、NHK総合の特集番組では大石さんと大門さんの元チームメイト同士の対決が注目された。最終ステージの最後の上りで大門さんのアタックに今中大介(当時シマノレーシング)さんのみ追いついてきて、リーダージャージの大石さんが遅れる展開に。結局、今中さんが逆転総合優勝を飾り、大石さんが総合2位、大門さんが総合3位となった。
翌1991年は、世界選手権(ドイツ・シュトゥットガルト)への出場を目指した。
「本音は世界選手権のロードに出たかったんですが、(選考レースの)全日本選手権のコースがあまり僕に向いてなかった。ただ、全日本のポイントレースで勝てば、ロードでも世界選手権の代表枠がもらえる可能性があると聞いてたので、目標を50000mポイントレースに絞りました。可能性に賭けたんです」
狙い通り優勝し、世界選手権ではロードレースとポイントレースの候補選手に選ばれた。
「世界選手権はロードに重点を置いていて、脚試しでポイントレースも出ておこうかという感じで臨み、予選を勝ち上がりました。当時は日本にはなかったボードトラック(板張りバンク)を人生で初めて走ったんですが、中野(浩一)監督から薦められて、今まで使ったことない52x15Tという重いギアを初めて踏んだんです。確かに板張りバンクだと足がやたらと回る感覚でした」
「決勝に上がったら、スイスの(ブルーノ)リージって選手も参加していたんです。彼とはスイスで走っているときから少し顔見知りだったんですが、逃げている時に『ヒロシ、ヒロシ、これ絶対(ラップ)決まるから!』と背中を押してきたんです。そしたら1周ラップが見事に決まり彼が世界チャンピオンになって、僕は6位入賞。僕自身もビックリ、連盟の関係者もビックリ、中野さんにも誉めていただき、リージも喜んでいて、レース後スイス車連からも感謝されました。リージは当時アマチュアだったけど、プロでも世界選手権のポイントレースで4勝しました。すごいですよね(苦笑)」
この成績により、大門さんは翌1992年のバルセロナ五輪でポイントレースの代表に選ばれる。
著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。