2023年02月20日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢 EF エデュケーション-NIPPO デヴェロップメントチーム 監督 大門 宏さん(前編)「出会いが生み出したストーリー」
シマノレーシングへ 恩師との出会いと別れ
いよいよ大学卒業を控え将来の見通しも立っていなかったそのころ、シマノレーシングの監督だった辻昌憲さんから連絡があった。辻さんは金沢高校、中京大学の先輩で、大学1年のときに東京五輪代表として山尾さんらとともにロードレースに出場。その後、シマノレーシングの初代監督となっていた。
当時は1984年ロサンゼルス五輪の前年。シマノレーシングはトラック競技で日本代表選手を多数輩出しており、大門さんにとっては雲の上のような存在だった。
「あのころのシマノは世界しか考えてなかったですね。特に目標をオリンピックに絞っていて、島野敬三専務(後の社長)直下の元、莫大な資金を投入して今でも有り得ない自転車競技に特化した素晴らしい施設の整った『五輪荘』という合宿所まで作っていました。ヨーロッパからチームカーのキャリアやデルニーバイク(トラック競技のペーサーバイク)を日本でいち早く導入。オランダ人のエディー・ソーエンス氏をコーチに迎えたり。シマノが練習を始めたら、それまで練習していた選手がバンクから降りてしまうくらいのオーラがありました。だから、僕が契約できるレベルの話じゃないなと思っていました」
しかし、当時シマノレーシングを陣頭指揮していた島野敬三専務、辻さんはロス五輪後はロードレースの時代が来ると予想しており、そのためのチーム改革を担う人材の1人として大門さんに声をかけたのだった。
「これからロードに路線変更ってなった時に、看板メンバーだったトラック競技の主要メンバーは引退、競輪の道に進んで行かれました。だから、辻さんも新たな選手を探すのは大変だったと思います。僕も大学を4年で卒業していたらその話はなかったわけで、まさに運命的な契約でした」
著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。
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