2023年02月20日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢 EF エデュケーション-NIPPO デヴェロップメントチーム 監督 大門 宏さん(前編)「出会いが生み出したストーリー」
このころシマノ(当時、島野工業)は、エアロ時代を先取りしたデュラエースAXの次のロードコンポーネントとしてデュラエース7400シリーズを開発していて、入社した大門さんは品質管理部の社員としてSTIレバーやSIS(シマノ・インデックス・システム)、さらにはMTBのパーツのテストも担当していた。
「早朝練習ののち出社、午前中はレーシングチームの部署で品質管理の仕事をして、午後から練習という日々でした。僕はシマノに入ってからも、どうしても『場違い感』は拭い切れず、当時同じタイミングでチームメイトになった大竹さん、原くん(現シマノ社員)とも『俺らテストライダーの業務も真剣にやらないと、監督からクビになるかも…. 』と特にシーズン前半は毎日が緊張感に満ちた日々だったことを思い出します」
「ただ僕にとってロード練習より辛かったのは山奥の山林で実施するマウンテンバイクでのテスト合宿でした。 大竹さん、原くんは水を得た魚のように生き生きとしていましたが、不得意な僕にとってはまさに拷問のような時間でした(苦笑)」
しかし、トラックからロード路線に生まれ変わろうとする新生シマノレーシング、そして大門さん自身にとっても衝撃的な出来事が起こる。1985年8月12日、東京出張から帰阪する辻さんが乗客乗員520人が犠牲となった日航機事故で帰らぬ人となったのだ。
「辻さんが亡くなったのは僕にとって物凄くショックでした。辻さんに拾ってもらったという気持ちもあったので、その年は意気消沈してしまいました。その翌年はとにかく辻さんの期待に応えなきゃいけないっていうか、恩返しというか、僕も気合いが入った年で、頑張って結果を残しました」
1986年、国際サイクルロードレース(現ツアー・オブ・ジャパン)の東京大会で大門さんは3位表彰台に上がる。
「ワン・ツーがフランス人で、僕が3位。その成績で初めて周りに認知され、シマノの社員の皆さんからも喜んでもらえました」
当時は貴重なレースの一つだった春のチャレンジサイクルロードレース(静岡県・日本CSC)では優勝も飾った。
「僕が先行して、高橋松吉さんだけが追ってきたんです。2人で先頭交代していたら、松吉さんが周回を間違って僕を抜いて手を挙げた。僕はあと一周走って優勝です… 明らかに高橋松吉さんの方が実力は上だったので、すごく気まずかったですね(苦笑)」
この年の全日本選手権でも同じような展開となった。
「僕が最初逃げて、高橋松吉さんと三浦恭資さんが追いついてきた。僕は後ろの集団に追いつかれるくらいなら3位でもいいと思って、先頭引かせていただきますという感じでした。今だったら若い選手に『3位でいいなんて絶対考えるな」と言いますけど、そのころはこのメンバーでの争いには慣れてなかったので、気合い負けしていたかもしれません』
この年のアジア大会(韓国・ソウル)には、日本代表として出場。
「100kmチームタイムトライアルで三浦さん、松吉さん、佐藤稔(としみ)さんの4人で、日本記録を10分ぐらい縮めて初めて2時間10分を切り、3位表彰台。しかも、その時は連盟の方針でディスクホイールを使わせてもらえなかった。すごく自信になりましたね。個人ロードは逃げに入って、4人中4位。86年は年間通して、いい成績でした。やっぱり当時の僕にとって、松吉さんと三浦さんとの出会いがすごく大きかったです」
著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。