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2023年02月20日

サイクリスト あの日の夢~これからの夢  EF エデュケーション-NIPPO デヴェロップメントチーム 監督 大門 宏さん(前編)「出会いが生み出したストーリー」

ヨーロッパ挑戦、世界選手権入賞でバルセロナ五輪出場

次第に大門さんはヨーロッパでの活動を考えるようになる。

「その頃から高橋さん、三浦さんにお前は絶対にヨーロッパに行った方がいいと言われていました。当時の国内のロードレースは平坦が多くて、アタックしても最後は吸収される確率が高かった。僕が力を発揮できる上りのあるレースって修善寺(日本CSC)ぐらいしかなかった。それで『自分の真価を試すにはヨーロッパに行くしかない』と思ったんです」

「辻監督がいらっしゃらないんだったら、もうここにいる意味はないみたいなことは言って、シマノも辞めるつもりでした。しかし、部署の上司に聞き入れてもらえず、最終的に休職扱いにしてヨーロッパに派遣、最低賃金は保証するからレポート提出を義務とするという条件を受け入れて、出国する運びになりました。もちろん渡航費用などは自己負担でしたが、最初は貯金だけでの遠征を覚悟していた僕にとってはすごく好条件に思えました」

1987年2月16日の誕生日、大門さんはドイツへと渡り、最初に訪ねたのがデュッセルドルフにヨーロッパの拠点を構えていたSEG(シマノ・ヨーロッパ)だった。そこでは、渡欧前から相談に乗っていただいていたシマノレーシングOBの長谷部雅幸(現・シマノ自転車博物館事務局長)さんが出迎えてくれた。

しかし、着いたその日にイタリアに行くことになり、雪が降る中、自転車を引きずりながら夜行列車を乗り継ぎ、ヴァレーゼで鉄沢幸一(新家工業)さんと落ち合った。当時、鉄沢さんは市川雅敏さんとすでにヨーロッパでレース活動していて、大門さんが以前からヨーロッパ行きを相談していたひとりだった。

「鉄沢さんに会ったときはホッとしましたね。凍える中、最初にレストラン連れてってもらって、暖かいものを食べさせてもらいました」

またイタリアでは、長谷部さんの紹介でMICというシマノの代理店にもお世話になった。

「コロンボさんという社長と奥さん、事務の女性、倉庫番だけの小さな会社でした。そのころ、まだイタリアではシマノの認知度は薄く、まったく売れてなかったんです。やっぱりカンパニョーロの国じゃないですか。(フランチェスコ)モゼールが初めてシマノを使ってくれて、レースでも使ってくれるかなと話したりしていました。その数年後には、シマノもマウンテンバイクのコンポーネントで大ブレイクして、コロンボさん一家も莫大な財産を築き上げ、フェラーリに乗ったりと羽振りよくなっていましたけどね(苦笑)」

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