2021年12月25日
サイクリングサイエンス コラム第九回/誤解されている乳酸
みなさんこんにちは。Ranです。気がつけば年の瀬。師走は何かと忙しい時期ですが、サイクリストにとって12月といえば、”Rapha Festival 500”でしょう。いてつく冬の寒さ、500kmという距離の長さ以上に、”家族と会社の理解”が最大の峠です。周囲の人からの狂人を見る視線から逃げているうちに、気がつけば2021年も過ぎ去っていることでしょう。
これまで8回の連載で、ロードバイクトレーニングを理解する上で不可欠な理論をご説明してきました。ここから趣向を少し変え、運動している人体に何が起きているのか、その仕組みについて解説していきたいと思います。今回のテーマは長年誤解され続けてきた不遇の物質、“乳酸”に焦点を当てていきます。トレーニングの理論を学んだ人も、そうでない人も一度は聞いたことある名前ではないでしょうか。
乳酸とは無酸素運動の代謝産物
乳酸(lactate acid)はエネルギーを生み出す過程で生まれた副産物です。詳しく解説していきます。
人間は主に糖質(グルコース)と脂質をエネルギー源として使用しています。そしてこれらの物質からエネルギーを取り出す際に、主に2段階の工程を経ています。1段階目を解糖系(無酸素)、2段階目をTCA回路(有酸素)と呼びます。
細かい化学式は覚える必要はありません。ここでイメージしていただきたいのは、人間の体はエネルギーを作る際に、酸素を使う方法と酸素を使わない方法があるということです。そしてこの2種類の方法はそれぞれ利点と欠点があります。酸素を使わない回路の大きな利点は、経路が速いことです。無酸素回路は工程が少なく、経路が回り始めてからエネルギーを生み出すまでが圧倒的に速く、酸素が必要な回路の約100倍の速さと言われています。
しかし、酸素を使わない方法は生み出すエネルギーの総量が少ないという欠点があります。生み出すエネルギーの単位は上図にあるATPと呼ばれる物質です。無酸素により1分子の糖を無酸素的に分解する場合、2分子のATPしか産生されません。一方、TCA回路(有酸素)で分解する場合は、なんと36分子のATPを産生することができます。単純計算でも18倍違うのです。エネルギーを無駄なく使うという観点からみれば、酸素を使うTCA回路を使ったほうが断然効率が良いのです。
| 解糖系(無酸素) | TCA回路(有酸素) |
メリット | 速い | 遅い |
デメリット | 生産エネルギーが少ない | エネルギー効率が良い |
人間の体の中では基本的には酸素を使う回路を回してエネルギーを効率よく生み出していますが、緊急時で大量にエネルギーが必要になった時はこの酸素を使わない代謝経路をまわしています。さて、急にエネルギーが大量に必要になる時とはいつでしょうか。人体でエネルギーを最も消費する組織は筋肉です。すなわち、激しい運動時はエネルギーが大量に必要となるので、この無酸素の回路を主に使用することになります。
さて、この無酸素でエネルギーを得る段階で出てくる途中の産物が、乳酸です。乳酸は無酸素回路の過程で生み出されて体内に蓄積されます。その後はまた別の代謝経路でエネルギー源として利用されています。日常生活であれば、乳酸が生まれるスピードと乳酸が分解されるスピードが釣り合っているため、体内に蓄積することはありません。しかし、先ほど述べたように、激しい運動時は無酸素の回路を大量に回すことになり、代謝産物として乳酸が普段以上に生成されます。分解するスピード以上に乳酸が生成されると、徐々に体内に蓄積していきます。これがいわゆる ” 乳酸が溜まる ”という状態です。
乳酸が疲労の原因という誤解
乳酸はかつて「筋肉の疲労物質」として悪者にされていました。乳酸が蓄積する時というのは激しい運動の時、つまり全力疾走の時です。死に物狂いでもがいていると、段々脚に力が入らず、ペダルが回らなくなる….という経験はレースやヒルクライムをしたライダーであれば誰もが経験したことがあるでしょう。この状態をスポーツ界隈では「乳酸がたまった」と表現されます。
無酸素時間を一定以上続けられない理由は、この無酸素エネルギー回路を回している途中で生まれた乳酸が、筋肉の収縮を阻害するからと信じられています。しかし実はこれは誤解だったことが最新の研究で示されています。
過去の研究では、乳酸が大量に蓄積し、細胞が酸性側に傾くと筋肉の収縮が阻害されるという結果が示されていました。しかし、追加の研究によって、筋肉疲労は別の物質(カリウムイオン)の不均衡によるものと明らかになりました。つまり乳酸は濡れ衣を着せられていたのです。むしろ、乳酸はこの不均衡状態でも筋肉が収縮するのをサポートしていることがわかり、疲労の原因どころか我々の味方であったことがわかったのです。また、蓄積された乳酸は運動中でも再利用が可能で、TCA回路(有酸素)でも使用されます。さらには肝臓に運ばれてグルコースの再利用にも使われるのです。(コリ回路)
認知症に乳酸が効くかも?
さらに乳酸の素晴らしさは運動だけに及びません。乳酸は脳の機能も改善させうることがわかってきました。
“運動が脳に良い”というのは漠然と知られていましたが、具体的に運動の”何がどう作用して”脳の機能を向上させるのかはわかっていませんでした。しかしここ最近の研究で、激しい運動で体内で生成された乳酸が脳の再生や機能向上に寄与していることがわかってきました。
2020年の研究では、異なる強度の運動で、神経再生に関与する因子がどれほど増加するかが調べられました。結果、高強度インターバルトレーニングが最も効果的であると結論づけられています。また他の研究でも、乳酸は筋肉で生成後、血管を通して脳にも流れ、神経保護作用や長期記憶形成に重要な役割を果たしていることが明らかになりました。
この乳酸ですが、内服薬や注射を用いて外部から投与しても、運動した時と同様の効果をしめすことがわかっており、認知症やうつ病の治療薬へ応用が期待され、研究が進んでいます。
乳酸を作るにはインターバルトレーニングが効果的
さて、乳酸を体内に生成する非常に効率の良い方法はインターバルトレーニングです。第7回、第8回の連載で述べたように、インターバルトレーニングの負荷は無酸素運動領域に達しています。ゾーントレーニングでいうとL5-L6に相当する領域です。この領域での運動は無酸素回路が主に利用されるため、乳酸が血中に蓄積されていきます。また先ほど述べた通り、筋肉と肝臓には乳酸を再利用する回路が備わっていますが、継続的にインターバルトレーニングをおこなうことで再利用回路がより強化されていきます。
これまでの連載でインターバルトレーニングがいかにライダーの能力をあげるのかと力説してきましたが、認知機能向上やメンタルケアの観点から見ても、インターバルトレーニングは大きなメリットがあります。是非、7回、8回の連載を参考にインターバルトレーニングを組んでみてください。
今回の連載で乳酸の汚名返上ができればとの思いで書き上げました。みなさまも乳酸に愛を持って接していただければ幸いです。次回は”糖を制するものは補給を制す”をテーマにお送りします。
参考文献
標準生化学 第一版 藤田 道也
Front Physiol 2021 Jul 5. Zhihai Huang et al.
Lactate as Potential Mediators for Exercise-Induced Positive Effects on Neuroplasticity and Cerebrovascular Plasticit
Cereb Cortex. 2020 Jan 10 Andrews SC et al.
Intensity Matters: High-intensity Interval Exercise Enhances Motor Cortex Plasticity More Than Moderate Exercise.
Front Physiol. 2020; 11 Weaver SR et al.
Cerebral Hemodynamic and Neurotrophic Factor Responses Are Dependent on the Type of Exercise.
Cell. 2011 Mar 4. Suzuki A et al
Astrocyte-neuron lactate transport is required for long-term memory formation.
Biomaterials. 2014 Jun Álvarez Z et al
Neurogenesis and vascularization of the damaged brain using a lactate-releasing biomimetic scaffold.
Brain Res. 2009 Sep 8 Griesbach GS et al
Exercise-induced improvement in cognitive performance after traumatic brain injury in rats is dependent on BDNF activation.
J Neurochem. 2013 Oct E L et al
Lactate administration reproduces specific brain and liver exercise-related changes.
これまでの記事はこちら
第1回 「サイクリストと情報リテラシー」
第2回 FTPを信じていいのか?
第3回 FTPとどう付き合っていくか
第4回 TSS700の呪い
第5回 HRV 心拍数でわかるコンディション
第6回 ゆるポタで強くなる? 注目のPolarized Trainingとは
第7回 時間がなくても強くなれるインターバルトレーニングの極意
第8回「キツイがこうかはばつぐんだ」インターバルトレーニングの組み立て方
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著者プロフィール
ラン先生らんせんせい
医師兼研究者。工学系大学院で再生医学を研究する傍ら、”できるだけ短時間で強くなる”を目標に自転車トレーニングに関する論文を日々読み漁っている。休日はGPSで日本地図を描く”伊能忠敬プロジェクト”を個人的に進行中。個人ブログでも自転車に関連する論文紹介をしている。 https://charidoc.bike/