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2023年01月01日

サイクリスト あの日の夢~これからの夢 浅田顕さん(後編)

かつて選手として活躍し、引退後のセカンドキャリアでも様々な分野で精力的に活動を続ける人々の足跡をたどり、当時の思いや今後の展望を聞く連載。第2回はシクリズムジャポン代表の浅田顕さん。現役時代、ヨーロッパでプロ選手として活動した経験を活かし、引退後も監督・指導者として世界に挑戦する戦いを続けている。先日発表された新たな次世代プロロードレーサー輩出プロジェクト「ロード・トゥ・ラブニール」に込められた思いも聞いた。全3編の後編をお届けします。

INDEX

▷エキップアサダ、快進撃と無念の活動休止


▷ロード日本代表監督としての奮闘


▷新たなるスタート

エキップアサダ、快進撃と無念の活動休止

慌ただしい船出だったエキップアサダだが、チームには新城幸也、清水都貴、宮澤崇史、福島晋一・康司兄弟など実力ある選手がそろい、国内外のレースで勝利を積み重ねた。

「基本的にヨーロッパで走ることが前提。そこで評価されないと上には上がれない。その中でもツール・ドゥ・リムザンはいいバロメーターでした。プロの中で実力を試せるし、長い峠はないけど力がないとが勝てない。アンカーで出た最初の年は初日6人リタイアでしたが、翌年少し長持ちするようになった。06年にチームバンで出たときは初日に幸也がステージ3位に入り、そのまま総合3位に。08年には幸也がステージ優勝を挙げました」

なお、新城はユーロップカー時代の2012年にツール・ドゥ・リムザンで総合優勝を挙げている。また2008年には清水がパリ~コレーズでステージ1勝&総合優勝。これは日本人初のUCI1クラスのステージレース総合優勝となった。

「2クラスのレースでも何度も総合優勝しているし、とにかく表彰台に上がることが多くて、毎シーズン特別賞ふくめて60回以上は上がっていました。実力的にも認められ、どんどん集団の中で居場所を作っていきました。今、日本のチームでヨーロッパのプロのレース行っても居場所がないですが、当時は確実に受け入れられた実感があった。もしこのときツール・ド・フランスに出たら、6人は走りきれるという実感もありました」

2008年の活躍で、新城、清水にプロチームから声がかかり始める。

「当時は日本のスポンサーをあてにしていた部分も多少はあるけど、基本は実力で声をかけてくれた。チームとしては2人放出したら戦力的に厳しいけど、できるのなら先行してプロの世界で活躍してほしい。当時は別府もディスカバリーチャンネルでデビューしていたし、日本人プロ選手を増やさないと我々がプロチームになったときに選手がそろわないという思いがありました」

最終的にその年のジャパンカップに来日したブイグテレコム(フランスの当時プロコンチネンタルチーム、現トタルエナジーズ)と新城との契約がまとまり、翌2009年は新城、別府の2人がツール・ド・フランスに出場し、完走を果たす。

日本のロードレース界が大きな一歩を踏み出し、浅田さんにとっても長年の活動の中でもっともツール・ド・フランスに近づいた瞬間だった。しかし同時に再び資金面で暗雲が立ち込め始めていた。

エキップアサダは2010年のツール出場を目標にスタートしたが、そのためにはチームの運営費を3、4倍にしないといけない。しかし、2009年にはスポンサー費も減額となり、結局このシーズンでチームは活動休止。所属選手たちは他チームへと移籍し、バラバラとなった。日本チームでツールを目指すという夢は、再び遠のいてしまった。

その後は、コンチネンタルチームの活動再開を目指しながらも、次世代選手育成活動EQADS(エカーズ、EQuipe Asada Développement Systèmeの略)を始動した。

「コンチネンタルチームが活動休止したとき、しまったと思ったのが、ブリヂストンの育成チームの活動が滞っていて若手選手が続かなくなっていたこと。そのためにEQADSを作りました。EQADS にはU23の選手もいるけど、中学生ぐらいの年代から育てないといけないと、その年代が参加できるトライアウトやトレーニングを始めました。エキップアサダのフランス拠点は残しているので、ヨーロッパでのレース活動も続けました」

2012年にはEQADS所属の木下智裕がアジア選手権ロードレースU23で優勝するなど、成果も挙げていった。

「選手もみんながんばってくれて日本代表クラスにはなるけど、そこから上に進むのが難しかった」

ロード日本代表監督としての奮闘

2013年には日本自転車競技連盟(JCF)の理事から、強化コーチ・ロード代表監督に就任してほしいとのオファーがあったが、浅田さんは辞退した。

「今そういう役割をもらっても何ができるのか疑問だった。だったら、今やっている活動の方が自分の力を発揮できるとお断りしました」

それからちょうど1年後、同じ打診があった。今度は浅田さんは2つの条件を提示した。

「ひとつはナショナルチームとして、ヨーロッパに拠点を作ること。2つ目は、トップ選手を輩出するために日本のナショナルプロチーム設立を進めること。理事の方は、資金の問題はあるけどその方向で進めるのでお願いしますというので、引き受けました」

すでに2020年東京五輪開催が決まっていたので、そこへ向けての強化策としてもナショナルプロチーム設立はピッタリはまるアイデアだと考えていた。

「自分たちもチームとして活動してきたし、海外で経験を積んでいるスタッフもいて、日本人だけである程度のことはできる自信はありました。当時の橋本聖子JCF会長も『ロードのことは、あなたに任せます』と話してくれました」

しかし、このナショナルプロチーム構想は、思ったようには進まなかった。いつしか浅田さんの手を離れ、最終的に2016年10月に発表されたJCF承認のJAPANプロサイクリングとなり、日伊合同チームのNIPPO・ヴィーニファンティーニに愛三工業などから日本人選手を送り込み、東京五輪の出場枠獲得を目指すという活動になった。

その一方で、若手を育成するU23代表チームの活動も浅田さんの大きな仕事だった。2016年以降はツール・ド・フランスのU23版と言われるツール・ド・ラブニールに代表チームとして参戦。2017年は雨澤毅明が総合20位以内を目指して、最終的に39位に入る奮闘を見せた。

リオ五輪を経て、コロナ禍で1年延期となった東京五輪でも代表監督として指揮を執った。

「(新城)幸也もいたし、日本の選手が力を出せる環境を提供しようと頑張った」

新城、増田成幸の両選手が過酷なレースで完走を果たしたものの、世界のトップとの差はまだ大きいものがあった。

新たなるスタート

2022年12月、浅田さんはJCFを離れて再び新たな挑戦をスタートする。次世代プロロードレーサー輩出プロジェクト「ロード・トゥ・ラブニール(RTA)」だ。その活動内容は、広報活動、タレント発掘トライアウト、チームでの欧州レース参戦など7項目に渡る膨大なものだ。最終的な目標は、浅田さんが長年目指してきた日本人の選手・スタッフを中心とする世界レベルのプロチーム結成の準備となっている。

このプロジェクトは、もともとはJCFがJOC(日本オリンピック委員会)に提出する2024年パリ五輪、2028年ロサンゼルス五輪向けてのロード強化戦略プランとして、浅田さんが起案していたものだった。しかし、JCF内で全面的な承認が得られず、プラン自体が宙ぶらりんに浮いた状態となった。

「本来は連盟の中でやりたかったが、いろいろ事情があってできなくなってしまった。しかし、できないで終わらせるわけにはいけないし、誰かがやらないといけない。だから、日本のロード界を代表して個人でやることにしました」

「JOCを中心に考えるならば、五輪で活躍する競技種目にならないといけない。ロードレースで五輪で活躍するということは、プロとして活躍することと同じ。東京五輪ロードレースの上位8人は全員、その年のツール・ド・フランスを走った選手が占めています。だから、とにかく日本からプロ選手を輩出しないといけないんです」

RTAの活動内容が7項目に分かれているのは、日本のロードレース界にはそれだけ課題が多いということの裏返しでもある。中でも、プロ選手になるために最も必要なことは、若いうちからヨーロッパで活動することだと浅田さんは訴える。

「日本の他のプロスポーツ、プロ野球やJリーグで活躍すれば世界のトップチームに入れるかもしれない。しかし、ロードレースは現時点でヨーロッパにしかないんです。いくらUCIがグローバリゼーションと言ってアジアツアー、アフリカツアーに力を入れても、評価されるところはヨーロッパにしかない。アジアツアーでリーダーになっても、ヨーロッパのプロチームから声がかかるわけじゃない。アジアとヨーロッパはまだ繋がっていないんです。だから可能性のある選手は、早ければジュニアカテゴリー(17~18歳)からヨーロッパに行って経験を積んで、そこで成果を挙げていかないとプロは難しいんです」

ヨーロッパで活動した選手が、セカンドキャリアとして若手に経験を伝えることも望んでいる。RTAの目標達成後に期待する一つには、「世界で経験を積んだ人材が、全国各地、サイクルスポーツを通じての地域活動に大きく貢献できること」とある。

「どこのチームの監督や首脳陣も一度は本場に憧れて、挑戦していると思う。そこで感じたことは人それぞれかもしれないが、自分が感じたのはヨーロッパで活動しないといけないということ。日本の各地域にそういう人たちが戻って、経験を伝えてほしいですね」

現役時代、そして引退後も浅田さんの世界への挑戦は、前進したかと思うと後ろに引き戻される苦闘の連続だ。それでも諦めずに進み続ける原動力は、レースを始めた少年時代、大塚和平さんや高村精一さんをはじめ、自分をサポートしてくれた世話好きな大人たちの存在だ。今の自分を、彼らの姿に重ね合わせているのだ。

「ヨーロッパでプロになれて、自分の力以上のところまで来られたのは、いろんな方にお世話になって、損得勘定抜きでサポートしてくれたおかげでした。クラブチームのおじさん方は若い連中に言いたいことも言うけど、無償のサポートもしてくれる。自分が高校生でお金がない中、自転車は中古で、レーサーシューズは知り合いからもらって、ウェアは競輪選手からもらって走ってきた。彼らに世界に行くと言っても、当時は誰も本気にしなかったけど、やればできることを見せたいと思って頑張ってきた。そういう人たちとは、今もレース会場で会って話が弾むんです」

「もちろん、教えるクオリティは今の自分の方があると思うし(笑)、それが仕事になってしまったけど、気持ち的には彼らと一緒。迷惑がられることもあるけど、できる限りやれることは伝えていきたい、がんばっていこうという選手をサポートしたいという自然な気持ちです。先ほども話しましたが自分がここまで来られたんだから、ほかの優秀な選手ならもっと上に行けるんじゃないか。そういう実感を得てヨーロッパから帰ってきたので、そこに再挑戦するんだというモチベーションは自然と湧き上がるんです」

日本のロードレース界を発展させたいという使命感は、まだ心の火を燃やし続けている。

「今が一歩を踏み出さないといけないとき。チームバンからエキップアサダに変わるときも大変でしたけど、今が一番大変ですかね。でも必要性はあるし、やる価値はある。この仕事に引退はないと思っているし、自分が役に立てるところに立つ必要があると思って頑張ります」


浅田顕さん/Akira Asada

1967年生まれ、東京都出身。高校卒業後、ブリヂストンサイクルに入社し実業団選手として活動。1990年に国内プロ登録し、全日本プロ選手権で優勝。1992年からは欧州プロチームと契約し、1994年にパリ~ツール完走。1996年に現役引退し、ブリヂストンサイクルなどで監督を務める。2007年にエキップアサダを設立し、ヨーロッパでのレース活動で実績を挙げる。2014年から日本自転車競技連盟強化コーチ(ロード代表監督)に就任し、リオ五輪、東京五輪で指揮を執った。2022年、新プロジェクト「ロード・トゥ・ラヴニール」を立ち上げ、次世代日本人プロロードレーサー輩出を目指す。


写真提供:シクリズムジャポン


前編はこちらhttps://funride.jp/interview/2nd-career-2

中編はこちら https://funride.jp/interview/2nd-career-2-2

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