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2022年12月31日

サイクリスト あの日の夢~これからの夢 浅田顕さん(中編)

かつて選手として活躍し、引退後のセカンドキャリアでも様々な分野で精力的に活動を続ける人々の足跡をたどり、当時の思いや今後の展望を聞く連載。第2回はシクリズムジャポン代表の浅田顕さん。現役時代、ヨーロッパでプロ選手として活動した経験を活かし、引退後も監督・指導者として世界に挑戦する戦いを続けている。先日発表された新たな次世代プロロードレーサー輩出プロジェクト「ロード・トゥ・ラブニール」に込められた思いも聞いた。全3編の中編をお届けします。
扉の写真:大前仁

INDEX

▷日本初、実業団チームをプロ化


▷ヨーロッパ遠征開始。つかみとっていった手応え


▷ツール出場を目指すチーム作り、立ちふさがる困難

日本初、実業団チームをプロ化

現役引退前後から、浅田さんは早くも指導者として忙しい毎日を送ることになった。現役中に立ち上げたリマサンズ厚木の運営とともに、1995年の終わりには古巣のブリヂストンサイクルからもアドバイザーとして加入してほしいというオファーがあり、2チームを同時に指導することになった。

リマサンズ厚木には、のちにアテネ五輪代表となる田代恭崇、現在もホビーレースで活動する高岡亮寛、筧五郎ら有望な若手が所属し、最大23人の大所帯となった

当初の目標は、1998年にツール・ド・北海道に出場すること。実業団ランキング7位以内になれば出場資格を得られたのだが、予想以上の活躍で1年早く1997年に出場することができた。

しかし、ブリヂストンも同じレースに出場する。当時はコーチという肩書ながら、レースでは事実上監督を務めなければならない。2チーム同時に見ることはできないので、自らはブリヂストンの指揮を執り、リマサンズ厚木はリマサンズの社長に監督をお願いした。

一方、当時チーム力が低迷していたブリヂストンからは強化してほしいというオーダーを受けていた。

「漠然としたリクエストでしたけど“実業団ランキング1位”になれればいいかなと思って、みんなで練習して頑張ったら97年に1位になれた。これで期待に応えられたと思いました」

とはいえ、2チームを並行して指揮を執るのには限界があった。1998年はリマサンズに専念したいと考えていたが、ブリヂストンからも慰留された。その結果、リマサンズをブリヂストンサイクルのサテライトチーム「リマサンズ厚木ブリヂストン」として自転車も供給してもらうことにした。しかし、この年のブリヂストンの成績は下降。

「前年ランキング1位となり、それ以上の目標がなかったのかもしれない。全日本も惨敗しました」

その1998年にはブリヂストンの新たなスポーツ自転車ブランド「アンカー」が発表され、翌年にはチーム名も「チームブリヂストン・アンカー」と改称。選手たちはショップ回りなどPR活動も行うようになった。その中、浅田さん主導で日本で初めて実業団チームをプロ化する改革を行った。

「それまで選手はブリヂストンサイクルの会社員で、他の社員と同じ待遇で給料をもらっていた。それを成果報酬契約制に移行しました。それでもやるという選手は続けてもらったし、やらない選手はやめていった。けっこう、大変でしたね。当時は新聞に毎日出るほど実業団チームがつぶれる話題が多くて、我々も危機感があった。選手の活躍と直結するアンカーブランドがあったおかげで、なんとか続けられました」

さらに「ヨーロッパに戻らないといけない」との思いも強くしていった。

「プロ化したからには実力的にもっと上を目指さないといけない。そのころから、日本のチームでツール・ド・フランス出場と言い出した。企画書を作っていろんな人に見せたけど、誰も相手にしてくれなかったですね(笑)」

ヨーロッパ遠征開始。つかみとっていった手応え

2000年以降は選手のヨーロッパ派遣を始めた。

「行きたい意欲のある選手から派遣を始めました。現役時代の人脈を活かして、田代、福島晋一らをクラブチームに預かってもらう。後でチームがついていくので、先行してもらっていた」

その後、チームとしても欧州遠征を開始。先行していた田代、福島らが上位入賞を果たすなど、成績を出せるようになってきた。

このころ高校を卒業したばかりの別府史之も、浅田さんのもとを経由して世界へと旅立っていった。ブリヂストンから活動費のサポートを受け、フランスの強豪アマチュアチーム、ラポムマルセイユに派遣されたのだ。

「アンカーのジャージで入団式をして、すぐ来週からフランスに行くことになっていました。会社内であいさつ回りをしたのですが、私は『彼はツール・ド・フランスに出ますから!』と一人一人に話していました。後に実現してくれたので、うれしかったですね」

2003年にはアンカーをトレードチーム3(現UCIコンチネンタルチーム)に登録し、ヨーロッパのUCIレースに参加を始めた。

「もちろんレースは厳しいし、そこまで行けずにやめた選手もいました。ただ、戦えないレベルじゃないと思ったし、少しずつUCIポイントを獲れるようになった。田代はフランスの当時UC11.5(現UCI 1.2=2クラスのワンデーレース)のレースで優勝。プロチームの選手もトレーニングがてら出ていて、パリ~ルーベを勝ったフレデリック・ゲドンもいました。田代は彼らと一緒に逃げに乗って、うまい具合に抜け出して勝ったんです」

この勝利は、浅田さんや選手たちに大きな目標に向けて自信をもたらすものとなった。

「そのころから『ツールを目指しています』という言葉を聞いてもらえるようになりました。フランスのレースで、プロやプロを目指す選手が出ているレースで優勝して、ツール目指していると言って何が悪いと、正当化されていった。インタビューで選手がそういうコメントしてもまったく違和感なくなりました」

次に参戦したレースが、フランスの4日間のステージレース、ツール・ドゥ・リムザン。レベル的にも1ランク上のUCI2.1のレースだが、前戦での田代の優勝でアンカーの注目度は高く、地元新聞にも取り上げられた。

「我々も期待をふくらませてスタートしたんですが、結果は初日で8人中6人リタイア。プロアマオープン(2クラス)とプロ(1クラス)は全然違う。まさに、プロの洗礼にあった。生き残ったのは田代と福島晋一で、残りのステージを2人で走り切りました。主催者からは『どうだ、やっはりプロのレースきついだろう』と笑いながら声をかけられましたね」

しかし、ヨーロッパで奮闘する中でチームと選手は着実に力をつけていった。2004年は田代が自身2度目の全日本ロード王者となり、アテネ五輪に出場して57位で完走した。

「92年まで五輪のロードレースは、アマチュアのみの出場。96年のアトランタ五輪以降プロアマオープンになって、日本人で初めて完走したのが田代でした。ヨーロッパでの活動がつながってよかったです」

ツール出場を目指すチーム作り、立ちふさがる困難

勢いに乗って、アンカーはさらなるステップアップを目指す。

「選手に『ツール行こうぜ』と言っている以上、チームが大きくならないといけない。トレードチーム(TT)2(現UCIプロチーム)昇格を目指して、会社の内部的にも相談を始めました。しかし、運営費が今までの約3倍かかり、ブリヂストンサイクルの予算だけではできない。他のスポンサーを見つけるのも簡単ではなかった」

そこで考えたのが、自動車用タイヤの世界的メーカーであるブリヂストングループ全体で予算を確保することだ。

「フランス、ドイツなどヨーロッパ各国にブリヂストンの現地法人や工場があるので、そこに支援してもらって、各国の選手を2人ずつぐらい入れてチームを作ろうと企画しました。ヨーロッパ人は自転車好きが多いので、好意的に聞いてくれました。ブリヂストンサイクルの社長もTT2,TT1(現UCIワールドチーム)に上がって、ツールを目指すと業界誌の取材で語っていたので、我々の期待も高まっていました。しかし、最終的にはブリヂストン本社の判断となり、調整できず実現しませんでした」

そのとき、外部から自転車チームを作ってツールを目指したいという企画が持ち上がった。ブリヂストンでの活動が八方ふさがりになっていたので、渡りに船と飛びついた。
それが、チームバンだ。

「選手もほとんどブリヂストンから引き抜いて、ブリヂストンの自転車も使わせてもらって、とんでもないことでもありました。ただ、自分としては選手に上に行こうと言っているのに、自分が上に行かないのはアンフェアだし、やらないわけにはいかなかった。ブリヂストンサイクルとしてもツールを目指すと言った手前、引き止められなかったのもあると思います。今考えると、リスキーだったのかもしれないですけれど…」

当時、この独立劇は関係者やメディアからの厳しい意見もあったが、浅田さんとしては唯一残された選択肢だった。こうして2006年に始動したチームバンは、UCIコンチネンタルチームとして国内外を転戦。しかし、すぐさま資金不足となり、わずか半年で活動を終えた。

「選手の給料も払えず、不満が出ていました。自分は運営会社の取締役になっていたので責任もあったけど、何よりチームを走らせないといけない。何もない状態で新たな会社を2週間ぐらいで作って、チームを始めました」

2006年の終わりに自らの会社を立ち上げ、2007年からはエキップアサダ(2007年はNIPPO梅丹、2008年は梅丹本舗GDR、2009年EQA梅丹本舗グラファイトデザインのチーム名で活動)として新たにスタートした。



浅田顕さん/Akira Asada

1967年生まれ、東京都出身。高校卒業後、ブリヂストンサイクルに入社し実業団選手として活動。1990年に国内プロ登録し、全日本プロ選手権で優勝。1992年からは欧州プロチームと契約し、1994年にパリ~ツール完走。1996年に現役引退し、ブリヂストンサイクルなどで監督を務める。2007年にエキップアサダを設立し、ヨーロッパでのレース活動で実績を挙げる。2014年から日本自転車競技連盟強化コーチ(ロード代表監督)に就任し、リオ五輪、東京五輪で指揮を執った。2022年、新プロジェクト「ロード・トゥ・ラヴニール」を立ち上げ、次世代日本人プロロードレーサー輩出を目指す。

写真提供:シクリズムジャポン


前編はこちらhttps://funride.jp/interview/2nd-career-2

後編はこちら https://funride.jp/interview/2nd-career-2-3

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