2022年12月31日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢 浅田顕さん(前編)
かつて選手として活躍し、引退後のセカンドキャリアでも様々な分野で精力的に活動を続ける人々の足跡をたどり、当時の思いや今後の展望を聞く連載。第2回はシクリズムジャポン代表の浅田顕さん。現役時代、ヨーロッパでプロ選手として活動した経験を活かし、引退後も監督・指導者として世界に挑戦する戦いを続けている。先日発表された新たな次世代プロロードレーサー輩出プロジェクト「ロード・トゥ・ラブニール」に込められた思いも聞いた。
INDEX
▷中学校の先生との出会いでロードレースの世界へ
▷単身ヨーロッパへ。自転車への情熱が再燃
▷引退後のキャリアを考え、育成チーム設立
中学校の先生との出会いでロードレースの世界へ
子どものころから友人と自転車を乗り回すのが好きだった浅田さん。小学5年のとき、「どこまで行けるかな」と自宅から数10km離れた八王子まで行くようになると、友人はついてこられなくなり1人で走ることが多くなった。中学生になると、サイクリング車で出かけてキャンプや野宿をするのに夢中になる。
「中2の夏休みには山中湖、河口湖に1泊ずつして帰ってきました。自転車にサイドバッグ4つ、ハンドルバッグをつけて、リアキャリアにテントをグルグル巻きにして。相当な重さになっていたでしょうね。当時はまだ体も丈夫ではなく体力の限界を感じました」
一方で真剣にスポーツに取り組みたい思いも沸々とあった。
「小学校では野球をやっていたんですが、中学に野球部がなくて、自転車を買うための新聞配達にのめりこんでいました。高校に入ったら何かスポーツをしないといけないと思っていたら、テレビでツール・ド・フランスを見て感動しました。ただ自転車をスポーツでやると考えたときに、どうやったらいいのかわからない…」
そのとき、中学校にロードレーサーで通勤している先生がいることを思い出した。その先生には担任になってもらったことも授業を受けたこともなく、まったく接点がなかったが「レースをしているという噂を聞いていたので、電話をしてお願いしました」とアプローチした。
その先生とは、大塚和平さん。アマチュアレーサーとして当時から活躍し、70代になった現在もホビーレースで優勝する健脚だ。その大塚さんと中学卒業から高校入学までの3週間の春休み、毎日一緒に練習した。
「練習というより、ただ先生についていくだけ。スタートダッシュで酸欠になるくらいつらかったです。最初のころは朝刊を配ってから練習に行っていたので、これはどっちか辞めないと無理だと思って、新聞配達を辞めました。それから1年間は未登録の草レース中心に大塚先生に連れていってもらいました。おかげで力はついてきました」
そのうち同年代の選手も実業団登録して活躍していることを知り、自分も上のレベルに行きたいと考え始めた。
「しかし、登録すると大塚先生は一緒に走る相手がいなくなるから、もう1年未登録でやらないかと言われました。交換条件でチャレンジロードレース(静岡県・日本CSC)で優勝したら、登録を認めてやると。今と違って高校生の部で200人以上出ていて、罵声はすごいし、落車もすごい。スタートダッシュで半分ぐらい減るほど、激しいレースでした」
このレースで優勝し、翌年はフレームビルダーの高村精一さん率いるプロショップタカムラ製作所のチームラバネロに加入。高2の終わりには、ブリヂストンサイクルの監督に声を掛けられ、卒業後の入社を口約束された。浅田さんが埼玉県上尾市のブリヂストンサイクル本社前で選手たちを待ち伏せして、一緒に練習についていったのはちょっと有名な話だが、それで入社を勝ち取ったというわけではないようだ。
「正式な内定はもらってないけど入ることはほぼ決まっていたので、夏休み中に力をアピールするために練習に参加させてもらいました。ちゃんと許可は取っていたんです。鈴木光広さんや2つ年上の橋詰(一也)さんには、よくしてもらいました。岩手での全日本選手権の帰りは一緒に車に乗せてもらいましたね。光広さんが優勝したので途中で温泉に泊まったのですが、その宿代も出してもらいました」
単身ヨーロッパへ。自転車への情熱が再燃
ブリヂストンサイクルでは1年目から上位に入るなど活躍。しかし、少しずつ自転車への情熱が薄れかけていった。
「やっていくうちに慣れもあって、おもしろくなくなってきた。自転車以外のことにも目が行くようになって走れなくなり、ロードレースもリタイア続きでした」
入社4年目の1989年、一念発起して単身でフランスに渡り、アマチュアチームに加入する。
「会社には『修行して帰ってきて活躍します』と申請して、前例がない半年間の休職をもらいました。せっかくヨーロッパのレースに憧れて自転車を始めたので、ダメだったら辞める覚悟で行きました」
ヨーロッパでの経験は、浅田さんの心に新たな火を灯した。
「フランスの中でも自転車が盛んなブルターニュ地方に行ったのですが、自転車選手の認知度の高さに驚きました。プロはもちろん、アマチュアもカテゴリー1~4とある中で、1の選手でもすごいと見られる。日本は基本的に実業団で行き止まりですが、ヨーロッパで自転車のプロを目指すのはこういう選手たちなんだ、競技を続ける価値があるなと思いました」
「チームでは何もわからない中で走っていたんですが、最初からレギュラーに選んでもらって、優勝はできないけど入賞できるぐらいになりました。監督、スタッフに喜んでもらえて、評価もしてくれた。それでも、プロになれる実感はなかったんですが、自分でも意識が変わったのがわかりましたね」
翌1990年も同じアマチュアチームで活動するつもりだったが、この年は宇都宮で世界選手権が開催される年だった。当時は今のエリート、U23のような年代別ではなく、プロ・アマとカテゴリー分けされていた。しかし、自国開催ながら日本にはプロチームがなかったため、プロのナショナルチームとしてJPP(ジャパン・プロロード・プロジェクト)が結成された。メンバーには高橋松吉、三浦恭資、安原昌弘、橋詰一也ら当時のトップ選手が名を連ねる中、浅田さんにも声がかかった。
「世界選手権は実力的に届かないと思っていたし、自分のところに声がかかるとも思っていなかったんですが、メンバー6人中6人目に声をかけてもらった。JPPは世界選だけでなく、ヨーロッパのプロレースも走る。プロのレベルはとても厳しいことを知っていたが、日本のチームで世界を走る趣旨に共感して加入しました。イタリア、フランスなどのプロレースに出ましたが、大変でした。力のある三浦さんは最後まで走り切っていましたが、自分はステージレースを途中でリタイアすることも多かったです」
この年、浅田さんは全日本プロロード選手権のタイトルを獲得する。翌1991年もJPPでの活動は続いたが、世界選手権が終わったことでチームとしての役割をほぼ終えていた。浅田さんたちは個人参加のようなかたちでヨーロッパへ遠征したが、出られるレース数も限られるなど、中途半端な状況になった。
しかし、1992年は個人スポンサーの後押しもあり、フランスのプロチームと契約。ネオプロ主体でアマチュアのフランスチャンピオンも所属するなど、それなりの活躍をしたチームだったが、内情はかなりお粗末だった。
「レースは出られるけど、給料がまったく払われませんでした。自分自身は日本でスポンサーがついていたので、給料なしでも走ると交渉していましたが、それはルール違反。チームオーナーは給料払うから後でスポンサー料で返せと言ってきましたが、結局1回も払ってもらわなかった(笑)。8月ぐらいになると、どんどん選手も離れていきました」
1992年にフランスのプロチームと契約。この年、初開催されたジャパンカップに出場した浅田さん(写真提供:シクリズムジャポン)
日本経済はバブル崩壊直後だったが、ヨーロッパではまだジャパンマネーをあてにする風潮も残っていた。ロシア籍のプロチームに移籍した1993年、8月のツアー・オブ・ブリテンのときに、とある有名チームの監督に声をかけられた。
「何の話かと思ったら、7000万円のスポンサー持ってきたら、ツール・ド・フランスに出してやると言うんです。その話はまったく真剣にとらえられなかったし、自分の実力でツールに出してもらっても2、3日でリタイアしたらしょうがない。他にも日本のスポンサーを持ってきたら日本人選手を何人か契約する、と言っていたチームもいました」
1993年は旧ソ連解体後間もないロシア籍チームに所属。後列右4人目が浅田さん(写真提供:シクリズムジャポン)
引退後のキャリアを考え、育成チーム設立
ヨーロッパのレースの盛り上がりには感銘を受け続けた。
「グランプリ・ウエスト=フランス(現ブルターニュ・クラシック・ウエスト=フランス)はすごかった。今でいうワールドツアーのレースで、リュク・ルブラン、クラウディオ・キアプッチらそうそうたるメンバーが出ていました。フィニッシュラインを通るときは歓声で何も聞こえない。世界選手権よりも、盛り上がりがすごかったですね」
1995年までプロとして4年間で4チームを渡り歩いたが、その後半には選手としてのキャリアには限界を感じていた。
「1993年には血流障害が出て、8月からシーズンオフ。その手術もせずに、94年、95年は経験を積むためと割り切って走っていました。自分がツール・ド・フランスを走るのは無理と考えていました」
ヨーロッパでのプロ最後の年となった1995年は、ベルギーのチームに所属。このころは引退後のキャリアについて真剣に考えていた(写真提供:シクリズムジャポン)
自身の経験を踏まえて若手育成への意欲が沸き起こってきた。
「自分は日本でそんなに強かったわけじゃない。上位には入れたけど、自分より強い選手はもっといっぱいいた。そういうもっと強い選手がヨーロッパに行ったら、自分より上に行けるんじゃないか。そういう若手にチャンスを作っていく役割に徹した方がこの先につながると思いました。25歳ぐらいのときはやめることしか考えていなかったし、自分が監督として働くことを想像していたのも覚えています」
1994年にはヨーロッパでの活動と並行して、育成型クラブチームのリマサンズ厚木を設立。自身の個人スポンサーで、自転車ショップも経営していたリマサンズがメインスポンサーのチームだ。
選手としては1996年アトランタ五輪の予選を走り、翌週の第一回ツアー・オブ・ジャパンで引退した。
「あっさりしていましたね。思うところはあったけど、どちらかというとせいせいした気持ちでした。朝起きてご飯食べて、レーサーシューズ履いて、タイヤに空気淹れて出ていく必要はもうないんだと」
引退後はチーム監督、指導者、経営者として若手を育て、世界に挑戦する道に進んだが、それはまさに困難と闘いが連続する茨の道だった。
<つづく>
浅田 顕さん/Akira Asada
1967年生まれ、東京都出身。高校卒業後、ブリヂストンサイクルに入社し実業団選手として活動。1990年に国内プロ登録し、全日本プロ選手権で優勝。1992年からは欧州プロチームと契約し、1994年にパリ~ツール完走。1996年に現役引退し、ブリヂストンサイクルなどで監督を務める。2007年にエキップアサダを設立し、ヨーロッパでのレース活動で実績を挙げる。2014年から日本自転車競技連盟強化コーチ(ロード代表監督)に就任し、リオ五輪、東京五輪で指揮を執った。2022年、新プロジェクト「ロード・トゥ・ラヴニール」を立ち上げ、次世代日本人プロロードレーサー輩出を目指す。
写真提供:シクリズムジャポン
著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。
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