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2023年09月12日

三船雅彦のパリ〜ブレスト〜パリ 4度目の挑戦で掴んだものは(前編)

ヨーロッパのプロチームに所属していた元プロサイクリストの三船雅彦さんが、2023年8月、4度目となるパリ~ブレスト~パリに挑戦。そのレポートを前編・後編の二部でお届けします。

PBP: Paris Brest Paris
ブルベの最高峰といわれるパリ~ブレスト~パリは、パリ郊外をスタートしブルターニュ半島の先端の街ブレストまで、片道600km往復1200kmのコースを自らの力で完走を目指す(引用:オダックス・ジャパン)。
4年おきに開催され、2023年8月に開かれたのは第20回大会(8月20日〜24日)。
コースはこちら (公式サイト:https://www.paris-brest-paris.org/)
出場するためには定められた期間中に、200、300、400、600kmのブルベに完走をしている必要があります。また期間中でより長いブルベ(1000、1200kmといった)を走ったサイクリストから順に優先エントリーが実施されるのも特徴です。

三船雅彦さんは中学の頃から自転車競技をはじめ、高校卒業と同時にオランダへ渡航。現地のクラブチームに所属し25歳でプロへ。プロになってからはベルギーに拠点を移し、95年から96年まではイギリスのプロチーム、そして97年から2002年までベルギーのプロチームで活動。その間ツールデフランドル2回出場やリエージュ・バストーニュ・リエージュ3回出場などを経験し2003年より日本に戻り2008年でキャリアを終えた。

PBPに魅せられ12年間にも及ぶ挑戦へ

今年で4回目の出場となるパリ~ブレスト~パリ(以下PBP)。2011年に初めて参加し、それから4回連続。今思えば2011年などはブルべの知識も乏しかったし、PBPに関しても一緒に現地で行ったツアーの仲間たちと比べても知っているわけでもなかった。

だからロードレースの知識はそれなりにあるつもりで、ブルべに関しても競技経験があれば大きく違うことはないだろうと思って初めてみたが、実際は大きく異なっていた。
そもそもブルべはレースではない。着順を争うことはない。決められた時間内に完走をするだけなのだが、距離が長いと、例えば600km以上ともなると速いだけでは辿り着けない。

時間のマネージメント能力も問われるが(本当は走力も問われるが、そこは元プロということであまり問題になることないと思ってる)、実はそういう時間軸から考えるマネージメントなんかはまんざらでもなく、むしろ好きな遊びの一つ。そう、割とブルベは性に合っていると言える。

PBPの先頭はロードレースさながら

先頭を狙って走っているPBPの80時間カテゴリー、一般的にはゼッケンがA組からE組の連中だが、ここは比較的「ロードレース」に近く、元々ロードレースだったPBPの古き良きスタイルを継承しているのだと感じる。

先にも書いたがブルべはロードレースではない、PBPも同じだが90時間という制限時間の中で10時間少ないカテゴリーが存在していてオープニングに走り始めること、PBPのルールの中で記載されているペナルティはすべてタイムペナルティで罰金などではない。このことから時間というものが重要視されているのだが、この考えはいわばロードレースの考え。日本ではブルべをされている人たちの大半がロードレース経験がない(ここで言うロードレースとは草レースではなく、ちゃんとUCIのレギュレーションにのっとったUCI公認のレースの事である)人たちにとっては、80時間カテゴリーの存在している意味も実はよくわかっていないのだろうと思っている。現地でA組やB組のスタートの盛り上がりを見ればわかるし、チェックポイントでのサポート体制(ブルべだがチェックポイント及びのその周辺では私的サポートは認められている)を見れば理解できると思うが、これは主催者が認めた「ロードレース」だ。
私がPBPで先頭を狙うのは大会自体がそう言うものだし、そこで走っている者もそういうことで参加している。

そんなオフィシャルにはロードレースではなくなりブルべとなったPBP、2015年にはドイツのレンハルトがそれまでの記録を大幅に更新し42時間台でフィニッシュ。彼は500km地点で単独で飛び出しそのまま独走でフィニッシュした。面白いのは、復路に入ってからのナイトライドで、もしかしたら集団はすごい勢いで追走してきているかもしれない、と何度も後ろを振り向きながら走っていたらしい。この行動スタイル、完全にロードレースではないか(笑)。
そして私は追走集団にいたが、先頭にこだわるフランス人たちとベルギー人たちは、お互いに主導権を押しつけあい「牽けよ」「いやだ、お前たちが牽け!」などと口論しあっていた。そんな駆け引きもまさにロードレースみたいだった・・・。
そしてレンハルトから約1時間遅れて43時間23分で私は完走。ちなみに2019年時点でこのタイムは歴代で25番以内に入るものだった。

目標はもちろんトップフィニッシュ

2011年以降このPBPで一番で帰ってきたい、という気持ちは変わらない。
2019年には思ってもいない展開で「レース」は始まった。
11年、15年は先頭スタートのA組でスタート。割と組織的に進んでいく展開だったが、19年はB組で参加しA組に追いつく作戦。200km過ぎで私を含む4人で抜け出してA組を追走するもバイクのセッティングに問題があり私は脱落。その後集団に戻り再度ペースアップを謀るもブレストでA組に追いついた3人と40分もの差。ここで諦められない!とブレストからの上りでペースアップし3人で前を追いかけ、カレクスのチェックポイントからさらにペースを上げて単独になるもルディアックでは先頭3人と10分以内に。ただこのルディアックで補給スタッフが待機しておらず(実は勘違いして先のタンティニアックへと向かってしまった)補給食を得ることが出来なかった。とにかく沿道で補給待機している人になりふり構わず物乞いのように頼んでいたら、ブレストあたりで口論になり激しくやり合ったフランス人のサポーターで、「よくオレたちに食料くれって言えるな」みたいなことを言われたが、少しだけもらうことができた。その後フィニッシュして彼とは参加者で一番打ち解け合い固い握手をすることになった。そしてタンティニアックに向かう途中、食糧不足、エネルギー不足でハンガーノック。気温が5℃を下回る路上で、あまりの空腹で動けなくなりそのまま睡魔に襲われて歩道でそのまま15分ほど気絶し、この時点で19年の先頭争いから脱落してしまった。
ちなみにこの年、それまでノーマルスタイルのバイクのみだったのが、ブレーキレバーをはみ出ない範囲でDHバーの装着が認められた。このことで序盤からペースが上がったのだと思う。集団を利用しなくてもDHバーの恩恵で独走でもスピードが維持できる。ちなみに先頭3人のうち2人はDHバー。だが先頭でフィニッシュに帰ってきたのはノーマルバーのフランス人、56才のベテラン、コーケンだった。
悲願?の先頭フィニッシュ。きっとDHバー相手にしたたかに走ったに違いない。その証拠に2人で進み、最後のドルーのチェックポイント後で独走に切り替わっている。きっとアップダウン区間でアタックしたのだろう。
くどいようだが再度言うが、これはブルべでありオフィシャルにはロードレースではない。


ランブイエ城をバックに参加者たちはブレストを目指して進んでいく Photo:Kaori ASADA

DHバーが、大局を様変わりさせる

今年の大会はとうとうDHバーが解禁された。
これはアメリカやイギリスのウルトラディスタンスなブルべでは、以前からDHバー装着が「当たり前」で、ノーマルハンドルで1200kmとか走る距離じゃないでしょ? ってことなんだと思う。事実過去3回の大会で、イギリス人やアメリカ人は折り返しの時点で先頭争いに加わっているのを見たことがない。基本フランス、ベルギー、そしてドイツやイタリア、デンマークそしてオランダなど、冷静に見るとブルべの国というよりすべてロードレースの国である。ロードレースの先にブルべがある、と考えていても当然とも言える。

今年のPBPではDHバー装着者が目立った。後方には三船さん。Photo:YUFTA OMATA

このDHバー解禁でスタートしてから気になったのは、アメリカやイギリスからの参加者はほぼ全員DHバー。逆にDHバーをしていないのは、自分もだがなぜかフランス人。
前回口論になったフランス人、明らかに先頭狙いだったが彼は今回も参加していて、もちろん? DHバー無しだった。
思うに、PBPは100年前のロードレースの始まりともいえる大会。この大会で先頭で戻ってくるというのは当時からの歴史を繋いでいるということなのだろうか。フランス人はその昔から続く歴史を繋ぐことが名誉で、そこにはロードレースのスタイル、DHバー無しにこだわりがあるのかもしれない。
その点アメリカやイギリスのランドヌールたちはそんなこだわりはなさそうで、むしろ新記録を出せるならバイクは何でもOKという風に見受けられた。

今回使用したバイクはギザロGE-110のスペシャルカラー (発売未定) コンポはカンパニョーロ・スーパーレコードEPS、ホイールはカンパニョーロBORA ウルトラWTO33にタイヤはパナレーサー・アジリストDURO 28C。Photo:Kaori ASADA
今年のフランスは暑く、背中にボトル1本持って走ることにした。Photo:Kaori ASADA
現地時間8月20日16時、A組はスタートしていく。 今回スタートはほぼ最後尾でスタートした。Photo:Kaori ASADA

8月20日16時。A組がスタート。
日本と比べて涼しいわけでもない今年のフランス。スタートを待っている間に脱水になるかもと思うほど暑く、もしスタートが朝や日中だったら間違いなくインナーウェア無しでスタートしたはずだ。

スタートは時速30km出ているかな?という想像よりもはるかに遅いスピード。もしかしたら郊外に出るまではペースカーが入っているのか?と思うほど。集団も200人ほどはいるので危ないといえば危ない。しかし1時間ほど走ったところからペースは上がり始める。
DHバーを装着した連中が先頭に出れば、ペースは落ちにくい。
100km過ぎ、毎回集団が粉砕する上りがあるが、今年も警戒して余力を残しつつ、危険ではない位置を探し出して上り始めた。
前回やり合ったフランス人の後ろで上る。彼は今回同じジャージの若いアシスト2人を帯同させているようで、飲み切ったボトルを彼らと交換したりと完全にツール・ド・フランスのエースのような待遇。フランスではPBPの先頭狙いは英雄なのだろう。前回のコーケンがチェックポイントに来た時、フランス人たちが熱狂していたという話を聞いても理解できる。
しかしその上りで先頭の方がDHバーでペースを上げたためか彼はまさか重要ポジションから脱落。私は危険を察して少し前に上がり事なきを得たが、結局120km地点の通過チェックポイントであるモルターニュ・オ・ペルシュを通過した際、彼らを見つけることはなかった。

200kmのヴィレンラジュヘルではナイトライドに移行していく。フランスでは道路交通法で夜間走行に限り反射ベストの着用が義務付けられており、特に先頭では日中は誰も着用していない。そして太陽が沈んでいく中、みんなポケットからベストを取り出して着用していく。

ペースは緩むことなく、一時は時速38kmぐらいのアベレージで進んでいる。
実際、スタートからタンティニアックまでの350kmのアベレージが時速35kmを超えていた。
特にヤバいなと感じたのは緩い下りで、過去どの大会の時と比べても速く、現役時代のロードレースを思い出すようなハイペース。3〜4パーセントの下りで時速65kmぐらい出ていた区間もあったが、ノーマルハンドルだとひたすらハンドル下にしがみついているイメージだ。

今回のサポートチームはベルギー人2人と日本人1人。今回のドライバーは97年、98年とベルギーのプロチーム時代のチームメートだったリノ。そして彼の友人のザビエ、日本からはサポータークラブメンバーで語学に堪能し是非サポートを手伝いたいと浅田かおりさん、の3人。

チームメートだったリノ。今はマッサージャーとしてフットボール選手や自転車のチームで仕事をしている。ベルギー滞在中、リノにマッサージをしてもらう。Photo:Kaori ASADA

サポートチーム用にマツダさんのご厚意によりマツダベルギー経由でCX60をお借りすることになった。
今回PBPまではベルギーに滞在して調整。ベルギーからフランスまで陸路で移動したが、CX60の快適性のおかげであっという間の移動だった。サポートスタッフからも好評だった。Photo:Kaori ASADA
CX60の積載量は抜群で、空港からホテルそしてフランスへの移動は快適だった。 いま日本ではCX5に乗っているが、CX60に心を奪われてしまった(笑) 。Photo:Kaori ASADA

チェックポイントではブルべカードに捺印と時刻サインをしてもらわなければならない。
参加者の数とチェックをするスタッフの数のバランスが悪く、速くいかないと待ち時間で置いていかれる。
バイクをラックに置いてチェックポイントまでバイクシューズでランニング。2番目で捺印を終えてバイクへ即座に戻る。

今回チェックポイントで使用するものは、2つのラックに分けていた。 食料関係とそれ以外。 ウェアや考えられるバイクトラブル用にチューブや工具そしてチェーンオイルなど。 これらを車からサポートする場所まで運んでもらっていた。Photo:Kaori ASADA

ここでボトル交換と補給食受け取り。そして次回チェックポイントに向けたリクエストやお互いの情報共有などを行うが、その時間は前半ほど時間が短い。
そしてあまりの暑さと疲労でペットボトルの水を飲みまくる。
あまりしゃべることもできないままにスタート。前は10人ほどなので問題なく集団に戻れるだろうと思ったのだが、ここは想定外だった。

選手がやってくる前のチェックポイント まるで嵐の前の静けさだ。Photo:Kaori ASADA

文:三船雅彦 トビラ写真:小俣雄風太

後編はこちらから

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