2023年02月21日
あの日の夢~これからの夢 EF エデュケーション-NIPPO デヴェロップメントチーム監督 大門 宏さん(後編)「これからも目指すのは」
ロードレースでの無線普及に一役買う
この年、大門さんがJCFナショナルチームで指揮をとりオリンピックの参加枠がかかっていたアジア選手権(フィリピン)では阿部良之さんが優勝。真鍋和幸さんと共にオリンピック代表の切符を得た。さらにコロンビアで初開催された世界選手権にも乗りこんだが…。
「当時のコロンビアの水道水は私たちに合いませんでした。注意していたのですが、野菜や果物を洗う水滴まで対応するすべはなく、みんな食中毒で病院送りになっちゃって、阿部ぐらいしかまともに走れませんでした。
ダミアーニさんにはフィリピンでコーチを務めてもらい世界選手権ではロード日本代表の監督でした。その時コロンビアでイタリアナショナルチームとの交流をもったことがきっかけで、その後イタリアナショナルチームの監督になったんです」
「今でもレース会場で会うとそんな話をしますね。一言では語り尽くせない不思議な縁ってありますよね。
一つの出会いが色々な出会いを呼び込むっていうか…僕自身も色々な意味で出会いに恵まれた時期でした」
また当時はフィニーやランス・アームストロングの所属するモトローラやアメリカ代表チームが、ロードレースで無線機を先駆けて導入した時期だった。イタリアでも無線搭載のヘルメットが開発されていたが重量がかさみ、実用的ではなかった。
「当時のイタリア代表助監督のアントニオ・フージーは、僕が所属していた頃のベロクラブ・メンドリシオ時代の監督だったのですが、凄く好奇心が旺盛で新しい物好きな人だったんです。
早速、彼に頼まれて日本製の小型の無線機やパラシュート部隊が使用する喉伝導タイプのインカムなど沢山持って帰りました。あれだけの数を全部イタリアで使ったとは思えないので恐らく他国のチームにも譲っていたのでしょうね。それでヨーロッパのロードレース界全体に一気に広まって今に至るって感じです。嘘のような話ですが事実です」。
「こんなエピソードもあったんです。
ベルギーに遠征していたある日、ベルギーのチームの無線機を見たら僕が日本から買って来た小型無線機(当時は日本でしか入手出来なかった)を使っていたのをたまたま発見したんです。
懐かしかったですね。彼等に話すといきなり充電器が壊れてるから日本で買って来てくれないか?って言われて困りました(苦笑)。
数年前にイタリアのウエブサイトのインタビュー記事で、「無線機先駆者」の彼自身が当時の無線機の有効性に関したエピソードを僕の名前も出して論じていてビックリしました(苦笑)。
そんな僕も最近はレース後の充電が面倒くさくて仕方がない。老いた証拠ですね(苦笑)」
1990年代後半、日本鋪道はよりヨーロッパとの結びつきを強くしていく。1995年ジャパンカップに来日したイタリアのチーム、ゲーヴィスと交渉。ゲーヴィスのアマチュアチームに日本人チームを送り込み、ジャージに日本鋪道のロゴも入れ、自転車もゲーヴィスが使っていたビアンキを供給してもらう計画を進めた。
「それまで日本鋪道はフレームもウエアもすべて有償でメーカーから購入していました。僕はヨーロッパのスポンサースタイルを経験していたので購入よりスポンサーを募り浮いた運営資金でヨーロッパでの活動のサポートをお願いした方がいいんじゃないかってことで、ゲーヴィスの当時マネージャーだったボンビーニ氏と話をしたんです」 。
「しかし、メインスポンサーであるゲーヴィスの社長の許可が下りず、この話は実現せず。代わって紹介されたのが同じくイタリアの強豪チーム、カレラジーンズのダヴィデ・ボイファーバ監督で、1996年からはカレラから完成車の供給を受け、ウェアーもナリーニと決まりました」。
「その時は、当時の日本の代理店(ポディウム社)の先代社長だった峰川さんにも色々と協力して頂きました。僕の選手用の自転車も作ったんです。でもイタリアでの活動のコーディネートや雑務で忙しくて途中から乗らなくなりました。当時は最先端だったアルミのフレームやハンドメイドによるブラッシングの美しいペイントが懐かしいです」。
著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。
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