2022年11月17日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢<1>今中大介さん(後編)
▷ツール・ド・フランス出場 少年時代の夢の舞台へ
▷本場ヨーロッパの自転車文化を日本へ
▷ツール・ド・フランス出場 少年時代の夢の舞台へ
プロとして力をつけていった今中さんは、1995年ジロ・デ・イタリア、そして1996年に少年時代から憧れだったツール・ド・フランスに初出場する。しかし、その開幕は感傷に浸る間もない慌ただしいものになった。この年はオランダでのプロローグ。チームは時間に余裕を持って会場入りしようとしたが、多くの観客で交通渋滞が起こり立ち往生。白バイで先導してもらっても、なかなか進めなかった。
結局、今中さんは自らTTバイクに乗ってスタート地点まで向かうはめに。大観衆をかきわけながら進み、会場に到着したのはスタートの数分前。「焦りましたね。結局、ウォーミングアップせずにTTを走りました。あのときは日本人初、アジア人初ということで注目されていたので、中継ヘリがずっとついてきていた。脚が回り切ってないのに大観衆の中を走ることになって。経験することのない感じでしたね」
翌日の第1ステージも試練だった。オランダの道路に多い中央分離帯のひとつに、ポルティのエース、リュク・ルブランがぶつかって落車。今中さんらは数分止まって待ち、強風の向かい風の中、ゴールまでになんとか集団に追いついた。「3日分ぐらいエネルギーを使った」とゴール後はヘトヘトだった。
ツール独特の緊張感もあった。「他のレースと同じメンバーで走っているので、ツールもその延長で緊張することないと思っていました。でも、みんな前に位置取りしようとするし、頻繁にブレーキかけるし、狭いところにつっこんでいく。ナーバスな状態が後ろで増幅して、おのずと肩に力が入って、肩こりがひどくなる。こんな緊張するのはツール、世界選手権だけでした」
なお、日本人でツールに初めて出場したのは1926、27年に個人参加選手として出走した川室競(かわむろ・きそう)だが、実は今中さんの出場を機に過去の記録を調べた後に明らかになったこと。埋もれていた歴史を掘り起こすほど、エポックメイキングな出来事でもあったのだ。
それだけに、今中さんに対するメディアの注目度も高かった。連日の取材に「準備させてくれ、頼むからシューズ履かせてくれと思ったけど、向こうも必死ですごくバランスが難しかった」と困惑。一度取材を断ろうとしたとき、当時ツールを放送していたフジテレビのカメラマンに「日本のみなさんが待ってるので、一言お願いします」と言われ、「レースのことだけで精いっぱいだったけど、応援してくださるみなさんがあってのことだ」と考えをあらためた。
第7ステージは、アルプスでの山岳コース。エースのルブランがステージ優勝を挙げ、今中さんはアシストとして勝利に貢献。少年時代に写真で見た景色を思い出し、「あの世界に自分がいるんだな」と感慨が押し寄せてきた。
▷本場ヨーロッパの自転車文化を日本へ
翌1997年は春先からなかなか調子が上がらなかった。ヨーロッパでのレースに加え、日本でもツール・ド・おきなわなどに参戦していたので、疲労も蓄積していた。
「まだまだ頑張れると思ったが、3年間プロとして思い切りやったので、身体が硬直してしまって調子が悪かった」
次第に出場するレース数も少なくなり、引退を決意。最後のレースは宇都宮のジャパンカップで、4位と奮闘した。
「変な終わり方したくない、ちゃんと仕上げて走りたい気持ちで臨みました。最後は自分でも満足できる走りになったかなと思うし、応援しがいのあるレースができたかな。みなさんによくしていただいて、応援してもらって幸せな選手生活でした」
引退後はショップを開こうかと考えていたが、ヨーロッパ時代にいろんなメーカー・ブランドが開発した機材をテストしていたので、そのつながりを活かした輸入業を始めようと、インターマックスを創業した。
その根幹には、いいものを選んで日本に紹介したい、日本にもヨーロッパのような自転車文化を根付かせたいという思いがあった。
「日本の自転車もお買い物自転車からロードバイクまで発展してきていますが、ヨーロッパはスポーツとしてツール・ド・フランスのように大きなものがあって、憧れる子どもたちがいて、みなさんがツールの季節を楽しみにワクワクして過ごす。そういうシチュエーションが日本にはない。そのギャップを埋めたいと思っていた。ヨーロッパで走っていて当たり前に感じる自転車文化の中には、テレビでは伝わらないものもある。それを本場の製品を通してしっかり伝えたかったんです」
「例えばフレームも輸入するときに、一般的な市販品とプロが使っている仕様は中身が違うものがあった。日本にもプロ仕様をそのまま紹介したいと、外観は変わらないが、プロスペックスのペシャルモデルを作ってもらいました」。
「ロードバイクもトータル1000本ぐらいテストして、性能の違いを敏感に感じられるようになった。みなさんにとって意味あるものをちゃんと提供しようと、インターマックスのロードバイクを作るのに繋がっていきました」
さらにイタリアのチューブメーカー、デダチャイがテクニカルサポートとしてつき、今中さんが開発したインターマックスのロードバイクは多くのサイクリストに愛された。
また今中さん自身は全国の自転車イベントにも積極的に参加して、自転車文化の普及・啓蒙にも力を入れてきた。
来年、インターマックスが創業25周年を迎える記念に、自社ブランドとしては久しぶりとなるロードバイク「InterMax 25(インターマックス・トゥエンティファイブ)」を発売する。以前から今中さん自身がイベントなどでテストバイクを走らせ、注目を浴びていたモデルだ。
今年10月のジャパンカップで25周年記念モデル「InterMax 25」を発表(写真提供:インターマックス) インターマックスは来年度で25周年を迎える
「みなさんの笑顔を見るためイベントを行っているようなところがあって、そこでインターマックスが扱うヘルメットやウエアをみなさんが使ってくださる姿を喜んで見ていました。またSNSで繋がっているみなさんが今でもインターマックスの自転車を大事にしていて、『私も乗っている』という方がたくさんいて、みなさんの想いに応えないといけないという感情もありました。フレーム、完成車を作っていたころのような大きなつながりを持てるプロダクトがあればいい。その気持ちを込めて25周年のモデルを作りました」
InterMax 25が目指すものは、あらゆる層のサイクリストが楽しめる自転車だ。
「以前だったら、レスポンスのいいレーシーなものを目指していましたが、今は気軽に乗れるようなロードバイクも必要だと思っています。普段の河川敷を走るサイクリングも楽しめる、山も走れる、レースももちろん走れる。心底楽しめるものを目指しています」
今後、日本での自転車文化をさらに醸成するには、選手の活躍とそのサポートが必要と語る。
「日本の自転車文化を押し上げていくのは、選手が世界で活躍するようなムーブメントを作ること。日本には自転車にかかわるいろんなメーカー、企業、団体がありますが、それらが一致団結していけば大きなものになるという思いがずっとありました。片山右京さんの新しいチーム(JCL TEAM UKYO)ができて新たな世界への道筋が確立されれば、ここ30年ぐらい停滞していたのが一気に動く可能性がある。毎年、日本人がツールに3、4人走るようになれば、おのずと世間のみなさん、メディアの注目を集めるようになるでしょう」
「選手はワールドツアーを走らないと強くならないし。そうならないと日本の自転車文化は育たない。自分自身はもともと素質はなかった。陸上部にいたころはドンガメで箸にも棒にも掛からない選手だった。やはり自転車は挑戦する、努力するという気持ちが100%という競技。自分ができることなら枠を越えて協力したいし、選手たちの心の支えをできればと思っています」
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今中大介/Daisuke Imanaka
1963年生まれ、広島県出身。大分大学で工学修士過程修了後、株式会社シマノに入社。1994年に渡欧し、イタリアの名門プロチーム「チーム・ポルティ」に所属し活躍。1996年、日本人として初の近代ツール・ド・フランス出場を果たす。1997年に現役引退し、株式会社インターマックス設立。JBCF(一般社団法人 全日本実業団自転車競技連盟) 副理事長など、多方面で活躍。
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著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。
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