2022年11月17日
サイクリスト あの日の夢~これからの夢<1>今中大介さん(前編)
かつて選手として活躍し、引退後のセカンドキャリアでも様々な分野で精力的に活動を続ける人々の足跡をたどり、当時の思いや今後の展望を聞く新連載。第1回は、日本人として戦後初めてツール・ド・フランスに出場した今中大介さん。引退後は自転車関連輸入商社インターマックスを起業し、日本での自転車文化普及にも力を入れています。
INDEX/(前編)
▷ロードレーサーに憧れ、競技の道へ
▷ヨーロッパで戦う中で成長を続ける
▷ロードレーサーに憧れ、競技の道へ
今中さんとサイクリングの出会いは、中学生のころ。地元広島の川沿いを、近くの大学生たちが革製のカスクをかぶって当時ロードレーサーと呼ばれていた自転車で走っているのを何度も見かけた。
「細いタイヤで走っているのが刺激的で、かっこよく見えました。当時の子どもたちはスーパーカーのミニカーやモータースポーツなど速いものに憧れがあって、その延長で自転車で究極のものに乗りたいと思うようになりました」
そのころ雑誌で見たツール・ド・フランスの写真にも、胸を躍らせた。
「アルプスかどこかの山を上っている写真で、選手がウエアの胸をはだけてパタパタしながら飛ぶように走っている。いかにも速そうで軽快で。その世界を見てみたいな、と。当時はまさか自分が走れるとは思ってなかったです」
初めてレースに出たのは大学浪人時代。「予備校でロードレーサーに乗っている友達がいて、予備校生ながらしょっちゅういろんなところに行ってたんです。彼がレースに出てみないかと言うので、当時盛んだった神鍋、グリーンピア三木(ともに兵庫県)で開催されたロードレースに出ました。そもそもツーリングから始めたので、フロントバッグを着けたまま走ってましたね」
大分大学に進学した後もサイクリングを続けていた。「環境がよかったので、別府温泉から湯布院への上りとか、九州の大自然の中を楽しく乗っていたら自然と強くなっていたような気がしましたね」
趣味で地元のレースに出たら成績がよく、県の自転車競技連盟の方に“大分大学にも自転車部作らないか”と声をかけられた。
「そのころは自転車競技を中心にやっていきたいし、インカレにも出たいと思うようになっていました。最初は下宿の1年生にたくさん入ってもらって自転車競技愛好会(のちに同好会、部に昇格)を作りました。あの連盟の方の助けがなかったら、ツールにも行ってないでしょうね」
初めて出場したインカレは、1人で群馬まで遠征。ロードとピストの2台の自転車を抱えて夜行列車で移動し、開会式での大学のプラカードを自ら持つなどすべてが手探りだった。
「当時、新潟大学の主将だった権瓶(修也、現新潟県自転車連盟理事長)さんがいろいろ助けてくれて、ロードレースで自分たちの部員が全員降りた後、自分をフルサポートしてくれました」
大学院時代は、国体のポイントレースで優勝。「ピストもおもしろくて、サーカスで鉄球の中をオートバイが縦横無尽に走っている感覚を味わっているような気分でした。バンクの駆け下ろしの加速も気持ちよかった」
とはいえ、心の原点はツール・ド・フランスへの憧れ。ロード選手として頑張りたいという一心で、国内ロードレースの名門であるシマノへの入社を志望。当時の島野尚三社長に熱意をしたためた手紙を送ったら、面接で覚えてもらっていたという。
「眼光が鋭い方で『エンジニアと選手の二足の草鞋でやりたい』と話したら、『そんなに甘いもんじゃないから、降りろと言うまで競技やってみろ』と言われました」
1990年にシマノに入社し、当時の岡島監督の下でシマノレーシングの選手として活動をスタート。さっそく1年目でツール・ド・北海道で総合優勝を飾る。当時のツール・ド・北海道は、北海道開発庁の提唱で観光開発や地域振興のために立ち上げられたレースで、注目度も高かった。「当時は日本一の大会だったので、テレビのニュースでも放送されていました。そこで活躍することはみなさんへの恩返しでした」
▷ヨーロッパで戦う中で成長を続ける
ツール・ド・北海道は3度制し、国体ロードレースも3連覇と国内で数々の勝利を挙げていく。そのころ、シマノレーシングの先輩だった長谷部雅幸さん(現・シマノ自転車博物館事務局長)に「今中、そろそろヨーロッパ行ってみないか」と声をかけられた。
「世界選手権はアマチュアでも苦労していて、自分はプロの世界では通用しないと思っていましたが、そうやって声かけていただけるのならと、社長に相談しました。当時、島野敬三社長に代わっていましたが、お願いしたところ『じゃあ2年間だけ時間を与えるからやってみるか』と背中を押してもらいました」
当初はオランダのチームに入る話もあったが、最終的にイタリアの名門ポルティと契約。世界選手権2勝、ジロ・デ・イタリア総合優勝の英雄ジャンニ・ブーニョらが所属する人気チームだった。
「最初は黄色いウエアを見て『これ着るの?』と思ったけど、練習に出ると目立つし、周りの反応がよくて、どこでもすごく歓迎してくれました」
しかし、イタリアに渡って最初の2週間はチームから何の連絡なかった。すぐ帰されると思い、毎日ジャンルイジ・スタンガ監督へトレーニングした内容のメモを書いて渡しに行っていた。スタンガ監督は昼寝していることもあったが、ついに「わかった、レース出してやるから」と今中さんの熱意に根負けし、いろんなレースに呼ばれるようになった。「最初は自分からアピールしなきゃいけない。これは、その後の仕事にも繋がっていくと思います」。
最初のレースはフランスのステージレース、クリテリウム・アンテルナショナル。当時、ローギアが21までしかない中、中央山塊の激坂を上ったりとジェットコースターのようなコースで「プロの洗礼だ」と感じた。
またバスク一周(スペイン)では、あるステージで強力な逃げが決まり、チームはエースを除く8人中7人で集団を引っ張り、追いかけることになった。
「4%ぐらいの上りを40km/hで走って行かないといけない。つらくてヒラヒラしそうだけど、テレビ中継もあったので自分が集団から中切れしたらかっこ悪い。なんとかしのいだのが一番の思い出。プロはへこたれちゃいけない、プロ意識を持たないといけないと思いました。そこからは必死にやっていけば、なんとか走れるようになってきました」
日本では自らが勝利を目指す立場だったが、ヨーロッパではアシストに役割が変わった。
「ボトル運び、パンク対応…….。残り150kmでエースにタイヤを与えて必死にステージを完走することもあった。チームには(ジャモリディネ・)アブドジャパロフという年間50勝するようなスプリンターがいたけど、その勝利は何度もアシストした。勝ってくれるとチームがいい雰囲気になるし、自分たちもやりがいを感じていました」
1年目からクラシックの最高峰のひとつ、リエージュ~バストーニュ~リエージュ(ベルギー)など多くのレースに出場。すでに31歳になる年だったが、プロ選手と一緒に練習し、レースを戦うことで、まだまだ成長していくのを感じていた。
「レース時間5時間のうち、最初の2時間ぐらいは日本のレースを走っている選手でもいける。ただ、プロは3時間越えたところからの最後の2時間が強い。その違いはヨーロッパに渡ってすぐチームメイトからも教えられた。そこの強化のため、練習でも5時間走った最後の1時間は思いきりレーススピードで仕上げるのをやっていました」
「その当時、ツールのタイムトライアルで4位になったことがあるチームメイトが練習相手になって200km、5時間ぐらいつきあってくれて、そういう日々に助けられた。差が段々つまっていくのを感じました」
「周りには(プロ入りが)引退前のご褒美という人もいて、それじゃ困るなと必死でした。やはり環境が育ててくれた。追い込みのトレーニング、超回復を繰り返していけば、おのずとコンディションが上がってくる。レースはその連続でした」
また当時は、心拍トレーニングがヨーロッパのプロの間で主流になり始めていた。ポルティのスポーツディレクターにその権威がいて、今中さんはそこで学んだことを「サイクルスポーツ」誌に寄稿し、日本での普及に大きな役割を果たした。
シマノの社員でもあったので、機材に関するレポートも送っていた。「ヨーロッパは環境の違い、レベルの違いで、日本で起こらないようなトラブルがバンバン起こるし、そのクレームを私に言ってくる。その中で、シマノの製品も成長してきたと思います」
イタリアではベルガモで3年間、ミラノで1年間過ごした。街の人たちはロードレースが好きで親日家も多く、今中さんも歓迎された。「ジェラテリア(ジェラート店)でサービスしてくれたり、ブロマイドを飾ってくれたり。肉屋に行ったら親父さんも自転車乗りで、日焼けの仕方でロード選手だとわかってくれて『ミンチは脂なしがいいよな』と気を使ってくれたりしました」
もちろん、最初は言葉にも苦労した、イタリアに着いたころはあいさつしかできず、いつも会話手帳や辞書を携えて動いていた。スタンガ監督にはいつも「チャオ」とあいさつしていたが、ある夏場のレースでようやく「目上の人間には、チャオって言わないんだよ」と教えられた。厳格だが選手思いの監督だった。
後編へ~本場ヨーロッパの自転車文化を日本へ(ほか)
https://funride.jp/interview/2nd-career-1-2/
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今中大介/Daisuke Imanaka
1963年生まれ、広島県出身。大分大学で工学修士過程修了後、株式会社シマノに入社。1994年に渡欧し、イタリアの名門プロチーム「チーム・ポルティ」に所属し活躍。1996年、日本人として初の近代ツール・ド・フランス出場を果たす。1997年に現役引退し、株式会社インターマックス設立。JBCF(一般社団法人 全日本実業団自転車競技連盟) 副理事長など、多方面で活躍。
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著者プロフィール
光石 達哉みついし たつや
スポーツライターとしてモータースポーツ、プロ野球、自転車などを取材してきた。ロードバイク歴は約9年。たまにヒルクライムも走るけど、実力は並以下。最近は、いくら走っても体重が減らないのが悩み。佐賀県出身のミッドフォー(40代半ば)。
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