2024年12月24日
「やさしく下ろう」ヒルクライムの聖地「ヤビツ峠」をいつまでも楽しむために、私たちができること
「ゆっくり下ろう」
2022年の暮れだったと思う。湘南に本拠地を置く「ベルマーレレーシングチーム」の選手として走っていた私(筆者:才田)は、チームの忘年会に参加していた。チームをサポートしてくれるスタッフやスポンサーが集い、お酒も程よく回ってきた頃のことだった。
話題の中心は、関東でも屈指の人気ヒルクライムスポットであり、チームが拠点を置く湘南地域秦野市にあるヤビツ峠に。
ヤビツ峠では連日たくさんのクライマーがタイムアタックを行う。それぞれが自分のベストに挑戦する。そして速いクライマーは当然注目される。しかし、峠を速く上ることは一部の人にしかできない。
峠は、基本的には上ったら下る。ヤビツ峠は麓から中盤にかけて集落を通過する。連日多くのハイカーが訪れる大山へのアプローチルートとして路線バスやマイカーが走り、トレイルランナーのトレーニングの場にもなっている。
みんなのヤビツ。そのためにサイクリストができることのひとつは、ゆっくり安全に下ること。これは誰にでもできる。その簡単なことが、思った以上にできていないことが現実のようだ。毎年数件の自転車事故が起きている。近隣住民からは、高速で下る自転車に恐怖を覚える、という意見があると耳にしたこともある。
「ゆっくり下ろう」
心掛け一つで、誰にでもできるこの当たり前のことを、声に出してみる。
大発見だと思った。
日本を代表するヒルクライムの聖地
東京の中心「皇居」から南西へ伸びる国道246号。厚木が近づくと目の前に、大きな壁が現れる。一際目を引く美しい三角形をした大山を中心に、標高1500m前後の山々が連なる。丹沢山地である。
皇居から約60 km、国道246号の名古木(ながぬき)の交差点を起点とする関東屈指のヒルクライムコース。それがヤビツ峠である。
南関東に住んでいるサイクリストにとってアクセスが良いこの峠。休日ともなると早朝からたくさんのヒルクライマーが峠を目指してペダルを踏み込んでいく。
「ヒルクライムの聖地」と呼ばれる峠は全国にいくつも存在するが、ここがその筆頭であると言っても良いだろう。
緩やかなアップダウンを繰り返しながら少しずつ標高を上げる序盤、突如として始まる「蓑毛」の集落を突っ切る急勾配の直登区間、集落の先の樹林に囲まれた心地の良い九十九折、遠く相模湾まで見渡せる菜の花台、そして記念写真を撮るにはもってこいの「ヤビツ峠」の大きな看板。
初心者から上級者まで楽しませてくれる、変化に富んだコースプロフィール、ボリューム、そして綺麗な路面。クライマーが欲しい要素をしっかり備えている。まさに聖地と呼ぶにふさわしいバランスの良い峠である。
引き継がれる歴史
少し歴史の話をしようと思う。歴史を知ることで、峠が今までとは違った空気を纏うことがある。
ヤビツ峠とカタカナで表記されることもあって、変わった名前だなと思う人も多いだろう。この「ヤビツ」は合戦の際に矢を納める箱である「矢櫃」からきているそうだ。
1569年。時は戦国時代。武田信玄が北条氏を攻めた際、ヤビツ峠の近くに位置する、これまた南関東のサイクリストには馴染み深い「三増峠」で大きな合戦があった。
ここで敗れた北条氏の残党が敗走する際にヤビツ峠付近に矢櫃を落としていき、それが後に発見されたことが名の由来だという。
ちなみに、この時の敗走ルートは「裏ヤビツ」。国道246号から登る一般的なルート「表ヤビツ」とは反対側の、宮ヶ瀬湖から登るルートである。
裏ヤビツは、表に比べて路面が荒れているところもあり、道も狭い。通行止めになることもしばしば。注意は必要だが、その木々に囲まれた、渓谷沿いに伸びる大自然の中を走るルートは、北条氏の残党が命からがら逃げた雰囲気と重ねてもしっくりくるように思う。この「表」と「裏」のコントラストもヤビツ峠の魅力である。
時計を一気に近年まで進めよう。
ヤビツ峠で最も一般的なSTRAVAのセグメントは「ヤビツ峠 コンビニスタート」である。最近自転車を始めた人の中には、疑問を持つ人もいるかもしれない。このスタート地点にコンビニはないからである。
過去にこの地にはデイリーヤマザキがあったが、2016年11月20日に惜しまれつつ閉店した。これまで、多くのクライマーがこのコンビニを拠点に、数え切れないほどの登坂を繰り返してきた。
北条氏の敗走という450年以上の長い歴史を持つヤビツ峠だが、サイクリングの歴史はまだまだ浅い。たくさんのクライマーの心の中に生き続けている「コンビニ」が、STRAVAのセグメント名に残されている。サイクリストにとってのヤビツ峠の歴史として長く伝わっていくのではないだろうか。
ヤビツ峠を未来へと繋ごう
今日も多くのクライマーが、それぞれのペースで、スタイルでヤビツ峠を楽しんでいる。つい先日、私がヤビツ峠をのんびり走っていると、一つの幟が目に入った。
「やさしく下ろう」
私が考えていたことを、より適切な言葉で表現していることは間違いなかった。この幟は「ヤビツ無料休憩所」と書かれた建物の前でなびいていた。
中に入ると、セルフサービスのコーヒーや軽食をいただける休憩スペースがある。チューブやタイヤを購入することもできるので、ヤビツ峠でのトラブルに対応可能。さらに、自転車を整備してもらうこともできる。そう、休憩所であり、自転車ショップなのである。
この休憩所を運営しているのは、厚木で長い歴史を持つ自転車ショップ「スキップ」。そんなヤビツ峠を最も近くで見ているであろう店主の山添さんが大事にしていること。
「地域の人と良好な関係を築く。自転車だけでなく様々な目的でヤビツ峠を訪れる人たちと協力して快適な環境を守る。そして安全に楽しむ。」
当たり前だけれど、忘れがちなことである。そのために、自転車乗りの誰もができることは何だろうか。
「やさしく下ろう」
ヤビツ峠の山頂で「#やさしく下ろう」を入れたSNS投稿をしてからダウンヒルに入る。そんなことでもよいかもしれない。安全に下山することを再確認することもできる。
少しの心がけできっと、450年以上の歴史を持つヤビツ峠は、10年後も、50年後も、100年後も「ヒルクライムの聖地」であり続け、たくさんのヒルクライマーを受け入れてくれることだろう。
ヤビツ峠 プロフィール(表ヤビツ)
- 神奈川県秦野市 県道70号線(秦野清川線)
- 標高 761 m
- 登坂距離 10.2 km
- 標高差 598 m
- 平均勾配 5.9%
- STRAVAセグメント
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著者プロフィール
才田直人さいた なおと
1985年生まれ。日本中、世界中を自転車で旅しながら、その様子を発信する旅人/ライター。日本の上るべき100のヒルクライムルートを選定する『ヒルクライム日本百名登』プロジェクトを立ち上げて、精力的に旅を続ける傍ら、ヒルクライムレースやイベントにも参加している。