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2015年11月19日

【日向涼子】おふたりさま 1人目・絹代さん Vol.1

本サイト好評連載「銀輪レディの窓」でもお馴染みのモデルでサイクリストの日向涼子さんがいま話しを聞きたいサイクリストに会いに行く、インタビュー連載スタート。

「最初にお会いしたのは、サイクルライフナビゲーターの絹代さん。
大きな自転車イベントには必ずと言っていいほど登場し、華やかな世界にいるように見えますが、これまで一緒にお仕事をさせていただいて、外には見せない苦労と、それらをものともしない情熱を感じています。また、せっかくのなので女性ならではの視点でお話を伺いたいと思います。」(日向涼子)

Vol.1 絹代さんと自転車の出会い

日向涼子(以下日):以前お話ししたときに、小さいころから身体が弱かったと話されていたので、どのようにして自転車に出会ったのかが気になっていました。そのあたりからお聞きしたいと思います。

絹代(以下絹):今でも決して身体は強い方ではないんですが、高校時代が一番体調が悪かったです。受験勉強を経験したら、少し身体が強くなったんですが、大学でまた体調を崩し、手術もしました。大学卒業後、JICA(国際協力機構)に勤務していましたが、そこを辞めるときにも体調を崩しましたね。

:JICAを退職した後はスポーツ栄養学を勉強され始めたそうですが、そのきっかけは何だったですか?

:JICAを辞めたあと、体調も崩しがちだし、自分に何ができるだろうと考えていたんです。で、とにかく勉強をしようと思い、栄養学を勉強し始めました。そこから自然な流れで興味がスポーツ栄養学に向き、大学に戻り、聴講生というかたちで、生理科学などの講義に参加しながら、留学する準備をしていました。

:まだそのころは自転車に興味はなかったんですね。

:当時まだあまり体調が良くなかったんですが、たまたま新聞で「自転車で有酸素運動をしよう」というテレビ番組の出演者を募集していました。なんとなく興味を持ち、履歴書を送ったら、オーディションに受かって。その番組で「自転車に乗れば脚が細くなる」ということや「カロリー消費の面で運動として優れている」ことを知りました。もともとJICAに勤めていて、環境問題にも関心があって、その番組をきっかけに「女性が抱えている問題や地球が抱えている問題には、自転車によって解決できることが多いのではないか」とすごく思って、それからは自然と自転車を軸に勉強をするようになりました。

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:たまたま、新聞でその告知を見なければ、今の絹代さんはいなかったのかもしれないんですね。すごい運命的!

:ちなみにその番組は、ジロ・デ・イタリアの中継をやっているチームが作っている番組で、先生が栗村修さん、ナビゲーターが白戸太朗さん、コーチがトライアスリートの中島靖弘さん(現湘南ベルマーレトライアスロンチームヘッドコーチ)でした。

:今も第一線で活躍されているメンバーですね。そのキャストにも運命的なものを感じます。

:留学先はイギリスだったんですけど、そこでも、自転車を軸に文献を読んだり、先生に聞いたりしながら、自転車について勉強していました。当時イギリスでシクロクロスの世界選手権が開催されたので、観戦に行ったのですが、その盛り上がりに圧倒されました。こういう本場の情報が日本にも届いたら、日本での自転車の地位が上がるだろうし、何か変えられるかもしれないという確信を持ちました。
 帰国後、ミヤタスバルレーシングチームで広報をやるようになり、選手の写真を撮ったり、文章を書いたりという仕事をしていました。自分が乗ることよりも、日本での自転車の地位を高めるために、チームの広報力を上げようと一生懸命でしたね。ロードレースチームとしては初めて、ファンクラブを設立したりもしました。

:当時はまったく自転車には乗らなかったんですか?

:日々忙しくて、時間的にも気持ち的にも余裕がなかったですね。ただ、ミヤタスバルでホノルルセンチュリーライドに行こうという企画をしたことがあって、集まったのが女性ばかりだったので、アテンドしたことはあります。その時は一眼レフカメラを背負ってクロスバイクで160kmを走りました。

:すごい……。急に走れちゃうなんて、一般の男性よりもタフな気が(笑)。

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:逆に何も知らないからできたんでしょうね(笑)。レーパンも履いていなかったし、途中からお尻が痛くて、ダンシングでごまかしながら走りました(笑)。スポーツ自転車に乗れば素人でも160kmって走れるんだって、感動したことを覚えています。
 当時自転車は本当にマイナーで、ロードレースに興味を持って、会場に足を運ぶ人なんてほとんどいなかったです。レース会場にいる女性は選手の奥さんか彼女だけという状況です。これを変えなきゃいけないという使命感を持っていましたね。

:変わっていく確信はあったのですか?

:弱虫ペダルが立証してくれましたが、サイクルロードレースって女性に刺さる要素があるんです。アシストが自分を犠牲にしてエースを送り出すというレース展開もドラマティックだし、選手の体型も綺麗だし。そこに気づいてもらえたら、自転車を取り巻く環境がすごく変わると考えていました。ただ、男性の目線で情報を発信しても、女性には響きづらいですよね。なので、私ががんばらないとと思っていました。当時よく栗村さんに「絶対に玄人になるな」と言われました。女性の目線でいいと思ったところを切り取って伝えてほしいと。いろいろ試行錯誤して、選手にインタビューしたり、メールマガジンを配信したりしていました。
 そのうちミヤタスバルだけでなく、NIPPOの仕事もやり始めて、大門さんと二人で、連盟と交渉し、日本代表のジャージの権利を使わせてもらうことにして、そこにロード限定のスポンサーをつけ、若手の選手を中心にヨーロッパに連れて行き、日本代表チームとして世界を転戦するプロジェクトもはじめました。撮影からレポート等の記事の執筆に加え、ウェブも一人で制作、更新していて、作業量が膨大になり、睡眠時間も平均で2時間くらいしかとれず、がんばりましたが、3年ほどで限界を迎え、残念ながらやめました。
 その頃から雑誌に出させていただいたり、自転車の乗る仕事にシフトしていったんです。

 

次回は「サイクルライフナビゲーター」の誕生と現在の活動について伺っていきます。お楽しみに。

 


絹代

サイクルライフナビゲーター。イベント等のMCや記事の執筆のほか、メディアでの情報発信など、自転車の魅力を伝えるとともに、自転車を軸に、健康増進や美容、エコのフィールドで活躍中。自転車を使った地域おこしや、子ども自転車教室などの普及活動も行う。自転車活用推進研究会理事。

個人サイト http://www.kinuyoworld.net/


 

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