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2023年03月09日

サイクリスト あの日の夢~これからの夢 沖美穂さん(後編)「自分は何をやりたいんだ、自分は何者なのか」

「考えている中で、日本の自転車業界はどうなっているんだろう? どの会社、組織だと私の経験を一番活かすことができるのかなと考えました。自転車競技連盟(JCF)と競輪選手会にはサポートしていただいていたので、知っていました。競輪の統括団体のJKAについては詳しく知らなかった。2、3年かけて、それぞれの組織の役割などを調べていました」

「JKAがどのようなところか話を聞きたかったけど、1人も知り合いがいなかった。シーズン中はヨーロッパに行っているから会う機会がない。それが偶然会ったんです。2006年にドイツのザルツブルクで世界選手権があったんですけど、レース前日に“調子はどうですか”と聞きに来た男の人が JKAのドイツの駐在員でした。そのときはそれ以上、話をすることはなかったんですけど、そうやって当時はいろいろ調べていました」

アドバイザーから競輪学校教官へ

2008年に現役引退した沖さんは、翌年からJOCスポーツ指導者海外研修員として2年間ヨーロッパへ。現役最後に在籍したイタリアのチームを拠点に活動した。「最初はコーチになるつもりで研修していました。今まではチームが借りていたアパートや選手の家に住んでいたけど、自分で不動産屋さんに行って部屋を借りてみたり、そういうのもチャレンジしました。イタリアの生活が大変だってわかりました」

「自分がお世話になったコーチは、30年以上女子チームを指導している経験豊富な人で、いろんな人の話を聞きなさいとアドイスいただきました。違うチーム、違う国の監督、コーチ、メカニック、マッサージ師を紹介してもらって、選手にも声かけさせてもらった。いろんな話が聞けました」

そのコーチが、沖さんに新たな進む道を示してくれた。

「1年ぐらい経ったころ、そのコーチが『美穂はコーチじゃなくてマネジメントとかが向いているんじゃないか、そういう仕事って日本にないのか』と言ってくれた。そんな仕事、聞いたことないと言うと、『じゃあ、自分がやりたいって言えばいいんだよ』と」

「それがきっかけで、私から提案してJKAとアドバイザリー契約しました。当時のJKA会長は元NHKのアナウンサーでベストセラー作家の下重暁子さんで、いろいろ気にかけていただきました」

JCFのハイパフォーマンスアドバイザーも同時に務め、ナショナルチームの合宿や海外遠征に帯同。2012年に始まったガールズケイリンのアドバイザーも務めた。

その後、JKAから日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)の教官になり、生徒教育に携わってほしいというオファーがあった。

「最初は自信ないし、日本の競輪のことは知らないということで断りました。それでも3回ぐらい声をかけていただいて、それだけ言っていただけるのはチャンスでもあるので、お受けしました」

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